著者の遠藤雅伸氏はゲームクリエイター。代表作には「ゼビウス」「ドルアーガの塔」「ファミリーサーキット」など、ファミコン世代の我々が幼少の砌(みぎり)お世話になった往年の名作が、ズラリと顔を揃える。
その遠藤氏、最近ではモバイルゲームも手がけている。東京大学大学院や宮城大学ではゲームデザインについての講義を担当し、本書は好評を博したその集中講義録。演習を交えたゲームデザインの講義はエンターテインメント性も高い。ゲームのみならず、コンテンツ制作全般に通じる「気づき」が得られる、読んで楽しい講義本だ。
ゲームデザインでは、プレイヤーに楽しんでもらう上でレベルデザインが重要になってくる。あまりに易しいものはすぐにクリアされ飽きられてしまうし、難し過ぎては敷居も高く愛想尽かされてしまう。名ゲームたりうるか、クソゲーで終わるか、絶妙のバランス感覚が要求され、その匙加減は実に紙一重だ。
ロールプレイングゲームでは、ラストボスを倒しエンディングを見終わった後も長く遊んでもらうために「やりこみ」の要素が欠かせない。そこで鍵を握るのがレアアイテムの存在だ。
ここで問題: 100回やっつけた敵が1回くらい出してくれるようなアイテムを作るとき、そのアイテムの出現率を何%に設定すればよいでしょうか?
簡単に考えると、100回に1回出てくるんだったら「100分の1でいいじゃん」とも思える。その設定、確かに”平均”するとそうなるのだが、このとき実際どういう現象が起こるかというと、
・100人が10回やったときに、90人がまだ出ていない。
ここはまだ当たり前の感じ。
・20回やると82人がまだ出ていない。
このへんだとまだ誤差の範囲か。
・30回やると74人残る。
・50回目だと61人残る。
ここで、思ったより微妙に残りのほうが多くなってくる。そして、
・100回やると、実は37人がまだ出ていない。
という数字が出た。母集団100人全体としては100個出ているが、2回以上出る人もいるので、その分全く出ない人もいるという関係だ。
これは余事象という、少なくとも何かが起こったときに、その起こらなかったほうの集合を扱う考え方で、実際にはなぜか「1/e」、つまり自然対数「e」の逆数になる。これが約37なので、20分の1の出現率で20回やると、やっぱり37人がまだ出ない、ということになる。
この論点について、平均や期待値で見る確率的な考え方と、実際に生じる現象を追いかける統計的な考え方では大きな違いがあり、安易に確率的に考えるのはNG。出現率を100分の1に設定しようものなら、ユーザーから「500回やったけど出ない、これはバグじゃないか!」という苦情が殺到するハメになる。
そこで、最初の問題「平均で100回に1回アイテムが出る」という設定にしたい場合は単純に100分の1とするのではなく、「大体の人に対して、100回以内で最低1アイテムを出すための確率」はいくつかと考える、もっと言えば「100回くらいやったら絶対出る」という感覚を持つことが大切になる。
多人数対戦ゲームのレベルデザインでは、スリリングな展開の演出のために一発逆転の要素が仕込まれている。テレビのバラエティクイズ番組で10点、20点を争っていたのに「最後の問題は10万点です」と、司会者の一存で得点が突如インフレを起こし、「じゃ、今までは何だったんだ?!」と雛壇芸人が全員立ち上がるパターンだ。
しかしこれをルールとして組み込むと、どうせ逃げ切れないんだから、と序盤に「やるだけ無駄感」が出てきてしまう。実力のあるプレイヤーにはゲーム全体を引っ張ってもらわなければならないため、この手のハンディキャップを正直に公表して彼らのモチベーションを挫くのは避けねばならない。
このハンディキャップ、業界では任天堂パワーと呼ばれているとのこと。もとは任天堂の商品を紹介するためのアメリカの任天堂のPR誌のタイトルに由来する。
「F-ZERO」という昔なつかしのレーシングゲーム。プレイ中、トップを完璧にぶっ千切っていたハズが、ゴール前で突如現れた追いすがる敵機を目にし「おやっ?!」という思いをした方も多いのでは? 実はこれ、レース終盤の競り合い状態の演出のため、2位のAIのスピードを一時的に上げる操作が裏でなされている。
そんな、勝っているプレイヤーには理不尽なドーピングによるパワーソースのことを「任天堂パワー」と呼び、いつしかレベルデザインのテクニックとして取り入れられるようになったとか。
(※任天堂パワーは、用量・用法を守ってこっそりお使い下さい。)
現在、ゲームの主流はモバイルゲームやオンラインゲームにシフトしている。電車の中で夢中にケータイゲームにのめり込むサラリーマンや、現実と仮想世界、昼夜が逆転してしまったゲーマーを目にするたびに
と思わないでもないが、精神的に病んでいらっしゃる方も多いユーザーを相手にするゲームの作り手こそ、肝が据わっていないと務まらない仕事のようだ。
オンラインゲームの運営上、コンテンツの消費は大きな問題だ。例えば「アメーバピグ」のようなゲームの場合、フィールドが人々で賑わっているうちは良いが、そのフィールドで出来ること、買えるアイテムが尽きてしまうとユーザーが離れ、過疎化していってしまう。
このとき、ゲームデザイン側でコンテンツ消費を防ぐには、「快適にプレイをさせないようにする」というのが逆説的に重要になってくる。快適にプレイをさせないことによって客が受ける不愉快と、それによってコンテンツが消費されない具合のいいところをとって、ゲームをデザインしなければならない。
しかし、そうすることによって萎えてしまうユーザーが現れるのもまた事実。「コンテンツの消費を遅らせることによってコンテンツを維持する」という必要からフィールドを広げ、時間を浪費することをユーザーに強いているわけだが、ユーザーからのネガティブキャンペーンは強烈なものがあり、
「やってみたのかよ、バカ、◎×▲※」
という大量の書き込みやサポートセンターへのメールが殺到するとのこと。逆に、オンラインゲームの世界ではこの時間節約ニーズがアイテム課金の根源になっており、実は、お金を払っているユーザーは快適にゲームが出来ているので文句を言わないという特性がある。
優秀なゲームデザイナーも、クレーマーはたいてい無課金であることを見越し、そんな苦情は軽くあしらって、
「おまえたち、パンがないならケーキ食えばいいじゃん」
とハナからチョー高い目線で見下ろし、ニコニコ笑いながらそういうヤツラに苦しみを与えていける、そのくらいの気持ちでないと運営できないというのが実情のようだ。
その点、HONZは無課金で全コンテンツが閲覧可能なので、健全かつ良心的と言えるのではないだろうか。そして、最近始まった活動記の不定期連載で他のメンバーも指摘するように、書き手・読み手を魅了して止まない、意識・無意識のカラクリがここHONZにはあるのだろう。
個人的には、日本の古典遊戯のエッセンスをHONZに感じている。新刊本にインスピレーションを受けレビューを書くというのは季感に着想を得る「俳句」、日替わりの持ち回りレビュー投稿は和歌を披露し合う「歌会」、新刊発掘・早い者勝ちの様相を呈する朝会や超速レビューは「百人一首」、また自身の投稿執筆時には「枕-本題-落ち」という「古典落語」のプロットを意識することもしばしばだ。
裏を返せば、古今東西、面白さのカラクリやレトリックにはある種の普遍性があるように思う。その種明かしや因数分解をしてみると、用いられている要素は案外共通しているのかもしれない。
遊びをせんとや生まれけむ、戲(たはぶ)れせんとや生(むま)れけん、
遊ぶ子供の聲(こえ)きけば、わが身さえこそ動(ゆる)がるれ。 – 『梁塵秘抄』
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今回は、かつてHONZで登場したゲームにまつわる本をご紹介。
ゲームビジネスの最前線を題材とした選りすぐりのMBAビジネスケースとして、また、ゲームの主人公が空を飛ぶようなスピード感で物語が進行する小説としても楽しめる一冊。成毛眞のレビューはこちら
ファミコンのスペック限界を超えろ!いかにして性能以上の名作ゲームが生み出されたのか、そのプログラミングの舞台裏や発想力を探る一冊。新井文月のレビューはこちら