避けて通れない人生の通過点、育ててくれた祖父母や両親の介護もいつの日かやってくるのだろう、個人的には実家は地方にあり、両親、祖母も健康だと思っているため、本書を読むまで完全に介護の世界は他人事だった。友人の何人かは介護施設で働いているが、これまで興味を持てず詳しく話を聞くこともなかった。完全にこの分野に無知だった自分を恥じるとともに、人生の諸先輩方が通ってきた苦労を今更知った訳である。そうまったくの介護及び介護施設初心者がこの本に手を出してしまった。読了後、大きな感動に襲われつつ、家族の未来と自身の老後を急に憂うことになってしまった。65歳まで残り37年。
ただただ、ここは反省文を書く場でもないので、まずは初心者らしく内容に入る前に介護に関するファクトを洗い出した、介護に詳しい方はビューンとすっ飛ばして先に進んでほしい。
1983年生まれとその50年後
2000年(16歳) 介護保険制度が導入される。
2005年(21歳) 高齢人口:2553万人で総人口の20%(5人に1人)
2010年(26歳) 高齢人口:2948万人。75歳以上は1419万人。平均寿命は男78.53歳、女85.49歳。 7.9兆円
2025年(41歳) 高齢人口:3657万人。75歳以上は2179万人。20兆円
2045年(61歳) 65歳以上高齢者のうち認知症高齢者が15%以上に。
2050年(66歳) 子供4人に老人1人の家族(1950年)から子供1人に老人4人に。
中国では4億8000万人が60歳以上に。
2055年(71歳) 75歳以上が総人口の25%を超える、
2060年(86歳) 高齢人口:3500万人弱(総人口8700万人弱に減少)平均寿命は男84歳、女90歳 ※85歳で56.5%が要介護認定になっている。
2010年(126歳)千の風になっていたい(数字はこちらから)
2050年を過ぎた頃から傍観する数字ではなく、自分がその数字の一部を構成し、他人事から自分事になるのである。こんなに遠い未来を今から心配しても仕方がないが、いざ想像すると背筋が凍る、ぞくっとする。2050年には、老人4人で寄ってたかって、1人の孫に集中的にお年玉をあげているのだろうか。また、2050年にならずとも、祖父母や両親を介護するという局面もやってくる。ちなみに介護時間は「ほとんど終日」が約2割という状況のようで、介護する人のことも考え、元気なうちから介護が必要になったらどうするかを話あっておく、そんな心構えが大切だそうだ。今からでも遅くはない。
また、介護職は「きつい」「汚い」「結婚できない」3K職場と揶揄され、離職率は約20%と高い。その印象と現実を払拭すべく、昨年は居酒屋甲子園ならぬ介護甲子園が日比谷公会堂で開催されたり、日本介護ベンチャー協会が介護3K終結宣言という声明を掲げている。事前学習はここまで!
著者は元々民俗研究者で大学で教鞭をとっていたが、ふとしたきっかけですっぱりと大学を辞め、地元の介護施設で働くことになった。「介護民俗学」は、そういった著者の経歴と深くリンクし「民俗研究者が介護の現場に身を置いたときに見えてくるものは何か」「民俗学は介護の現場で何ができるのか」という著者の生き方に直結した二つの方向性から問題を提起している。現場からの発信であるが故、タイトルからは想像できないアツさと力強さが読み進めていくうちに伝わってくる。
著者が「聞き書き」を通じて利用者から受け取った話は驚きが絶えない。認知症とうつ病を煩っているまさ子さん。結婚後に、高給取りのご主人が当時では珍しかった洗濯機を買ってくれた。さっそく主人のシャツを洗ってみたら、ポケットにお金を入っていることに気がつかずに、かなりの大金を紙くずにしてしまった。ご主人は許してくれたものの、まさ子さんは生き方そのものまで反省してしまい、離婚を決意し、その後、子どもを育てながら旅館の仲居として働き、お金を返しきった。離婚しつつも大切な人として見守ってくれたご主人はまさ子さんが認知症になった後でも、幻覚・幻聴に登場して、まさ子さんを守ってくれている。ホロリとするエピソードであるとともに、ふかい記憶はボケた後でも、大切にされているんだと認識して、自分は50年後にどんな記憶が残っているのだろうか、どんな思い出を周囲と共有できるだろうか、と考え込んでしまう。
記憶だけでなく、行動も体は記憶している。大正七年生まれの鈴木さんはトイレットペーパーを軽く揉み、大正十年生まれの橘さんは汚物入れにトイレットペーパーを入れる。それぞれ新聞紙を揉んで柔らかくして利用していた記憶、性能がよくなかった水洗トイレを利用してたときの身体記憶が蘇っている。和式トイレ時代の生活記憶が蘇り、洋式水洗トイレをトイレと認識できずに、手を合わせお辞儀をし、出て行く利用者もいる。利用者の言動や行動から、彼らが生まれ育った時代や土地の風習が想像でき、その中でもトイレは新しい発見がたくさんある小さなワンダーランドだと著者は興奮している。ここでも自分の身体にどういった記憶が残っていくのか、つい日頃の生活を振り返り、残りそうな癖を探してしまう。
民俗学の世界では、テーマに沿った「聞き書き」を行うのが通例だが、介護の現場ではテーマ設定を行わず(行えず)、その結果、想像を超えた興味深い話を利用者から聞くことができる、それが民俗研究者である著者の知的好奇心を満たすと同時に、介護サービスの利用者に話を聞いてもらえたという喜びをもたらすものになる。もちろん単純なWin-Winの構造ばかりではない。効率性と語り聞きはに二律背反し、時間をかけて利用者の話を聞くと仕事が回らず、周囲から批判の対象となる。一方で効率的に仕事をこなせば、その仕事に別の意味を見いだしやりがいはある一方で、語り聞きの時間が犠牲になり、利用者は遠慮し、著者は現場から「驚き」を感じるアンテナすら失ってしまう。
介護現場は2人で10人の食事・服薬・排泄(はいせつ)・入浴の介助、おむつ交換・食器洗いなどを行い、多忙すぎるのが現状だ。そういった現場で利用者の人生に驚きつづけ意地でも「聞き書き」を続け、民俗学に足りないもの、ケアに足りないもの、その両方をあぶり出していく。イノベーションは2つ以上の異質なもののエリアが交わるあたりで、その融合物として発生すると言われるが、介護と民俗学、2つの異なる文化・分野が融合されつつあり、その先に新しい可能性が眠っているに違いない、そんな期待感を抱かせてくれる。
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著者の前作。第25回(2003年) サントリー学芸賞・思想・歴史部門受賞。
病院より家で最期をという方には。