2009年に刊行された、飛びきりに面白いノンフィクションが文庫化された。
1975年4月、ソ連南西部マイコープ。柔道によく似たソ連の格闘技、サンボの日ソ対抗国際試合の会場にビクトル古賀はいた。古賀は、1年以上前に引退し、今回の遠征には監督として参加していたが、68kg級の選手が腰を痛め、急遽、選手として出場することになったのだ。
すでに40歳となっていた古賀は体重を絞るため3日間絶食し、マットに上がる。会場からは地響きのようなどよめき。もちろん観客たちは、古賀が、日本人とロシア人のハーフであり、世界大会で3度優勝、40連勝無敗で引退した元世界チャンピオンだと知っている。
相手は、世界選手権での優勝経験もあるタジキスタン出身の強豪。年老いた元世界チャンピオンを相手にいかにもやりにくそうな表情を浮かべる。試合開始直後、相手が仕掛けてきた瞬間、古賀は右足を跳ね上げ、腰の上で相手を反転させ、背中からマットに叩きつけた。「跳腰」による1本。開始後わずか30秒である。会場は拍手と「ビクトール!」という歓声に包まれる。
41連勝無敗、すべて一本勝ち。モスクワのスポーツアカデミーには彼のレリーフが飾られ、「サンボの神様」「伝説のサンビスト」として、古賀の名はソ連邦や東欧圏に轟いた。古賀の指導を受けた、日本の柔道やレスリングの選手たちは、ロス五輪柔道金メダリストの山下泰裕を筆頭に、世界で活躍した。
そんな輝かしい格闘家人生を送りながら、驚くべきことに古賀は本書の著者にこんなふうに語る。
だけどね、俺が人生で輝いていたのは、一〇歳、一一歳くらいまでだったんだよ。それに比べたら、あとの人生なんてとりたてて言うほどのことってないんだよ。
俺のことを書きたいって、何人もの人が来たよ。でも格闘家ビクトルの話だから、みんな断った。あなたを受け入れたのは、少年ビクトルを書きたいっていったからさ
41連勝という金字塔を打ち立てた格闘家人生よりも「輝いていた」と自ら言った、その10歳の頃、古賀は、生まれ育ったソ連国境近い満州国ハイラルで、ソ連軍の猛攻撃にさらされた。亡命コサックの娘であった最愛の母や兄弟とはぐれ、一人でハルピンに辿り着き、そこで折り合いの悪い親族たちとしばらく暮らしたのち、一人で引き上げ隊に加わって日本を目指す。しかしハーフであるゆえ、「ロスケのガキの世話なんかできるもんか」と追い出され、荷物も奪われてしまう。そして曠野をたった一人で錦州まで行き、日本へと辿り着くのだ。
家族と引き裂かれ、同胞であるはずの日本人の大人たちに裏切られ、行き倒れたり、暴徒に襲われたり、陵辱されたりした無数の死体を目の当たりにし、さらには引き揚げ中の母親と幼い子どもたちが中国人の男たちにスコップで撲殺され、身ぐるみ剥がされるような凄惨な殺戮現場も何度も見ている。
それでも、古賀が「輝かしい」という理由は、本書は読めばわかる。解説で佐野眞一が「『トム・ソーヤの冒険』を彷彿とさせる」「開高健の名作『フィッシュ・オン』を思い出した」などと書いているが、重い戦争の事実を受け止めつつも、キラキラと輝く「少年の冒険譚」となっているのだ。
まずはハイラルで、幼馴染のコサックの少年たちと馬を疾駆させ、草原を駆け抜けた日々の描写が実に美しい。スターリンはコサックに対して徹底した抹殺政策を取り、その7割が殺害されたという。亡命コサックが集まった満州国ハイラル北部はコサック最後の楽園であり、世界で唯一、コサックの伝統的な祭典ジキトフカが催されていた。また、古賀は、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世直属のコサック近衛兵で、コサック集団のアタマン(頭目)であった祖父からコサックの伝統を学んだ。輝くような草原で、古賀は「コサック最後の少年」として日々を送ったのだ。
そして、たった一人で1000キロを引き揚げる際に、コサックとして叩きこまれた様々な技術が役に立つ。荷物を奪われて水筒さえ持たない古賀は、それでも水に困ったことは一度もなかったという。
川の音は、ブォーンという空気を震わすような独特の響きで伝わってくる。太い川なら十キロ以上先のものも感知できた。その音や匂いで川の規模や流れの様子がイメージできた。どちらが上流でどちらが下流かもわかった。
川を見つけても、慎重に慎重を期す。
初めての川の岸辺に行くには度胸がいるよ。オオカミやクマが水を飲みにきているかもしれないからね。まず獣の足跡を確かめる。糞を見つけたらその状態をチェックする。動物の種類は何か、どれくらい前にした糞なのか。新しいものなら近くをうろついている可能性があるから、その場でしばらく様子を見なくちゃいけない。
大人の身長より高い木が生えているところを流れているのはいい水だ。岸辺に木が生えて流れはゆるやか、川を覆う木の影に魚の姿がいっぱい見えるところならそれはもう素晴らしい。ブルーベリーも大事なことを伝えてくれたよ。上流から下ってくるブルーベリーが草むらに流れつく直前の水はとてもいいんだ。
日本人引き揚げ者たちの多くは常に喉の渇きに苦しんでいた。駅に設置されてる給水所に引き揚げ者が殺到する騒然とした様子は古賀少年は遠くから眺めていたという。
旅の間はいつも水がそばにあったような気がする。曠野は荒涼としてかわいている? そんなことはない。池も川も、ほんとうに多かったんだよ
水だけではない。歩き方、川の渡り方、寝床の見つけ方、木の実の探し方など、コサックの知恵に基づく様々なサバイバル術が語られ、トム・ブラウン・ジュニアがアメリカンインディアンの古老から知恵を授かった少年時代を描いた名著『トラッカー』を思い起こさせる。
古賀少年は曠野を進みながら、常に太陽に「ありがとう」といい、野の花を見つけると、「きれいだね」「暑くない?」と語りかけ、コサックの歌を口ずさんでいたという。風、太陽、鳥の動き、木の枝ぶりなどから情報を集め、行くべき方向を定め、危険を察知した。まめに木陰で休み、早めに寝床を見つけ、少しでも危険を感じれば足を止めて木陰や草むらに潜んだ。行動は大胆でありながら、常に慎重だった。
「愉しかったな」
これが古賀が錦州にたどり着いたときの感想である。
一方、引き揚げ者たちの多くは、もっとも危険な線路沿いを炎天下に必死に歩き、寝床を探すこともなく、夜は地面にそのまま寝て体力を奪われた。怒鳴れば疲れるにもかかわらず、怒鳴り散らす。集団のなかに女性や子ども、体力のない者がいても、余裕のない壮年の男性リーダーは歩調を弱めることもなく、突き進んでゆく。そうやって線路沿いには次々に行き倒れた死体が転がっていった。
離れたところから引き揚げ隊を観察していた古賀は、引き揚げの成否は、リーダーの資質に大きく依存する、と言う。上述のような女性や子どもへの配慮のないリーダーのもとでは、死者を多く出し、一方、有能なリーダーのもと、ほとんど脱落者を出さないで引き揚げに成功した隊もいる(状況は違うが、このあたりは、東日本大震災の避難所運営とぴたりと符合する。弱い者への配慮を持つ余裕のある管理者に恵まれた避難所はその他の部分でも概ね非常にうまく運営されていた)。
引き揚げ者たちの行動を見つつ、古賀はこう言う。
日本人ってとても弱い民族ですよ。打たれ弱い、自由に弱い、独りに弱い。誰かが助けてくれるのを待っていて、そのあげく気落ちしてパニックになる。
この言葉は胸に響く。引き揚げに比して、まったくどうということのない現代の日本にあっても、私自身、仕事や生活上のちょっとした問題が持ち上がったとき、自分の行動が、すぐに上記のようになっていまいか。
自戒を込めて、古賀の言葉を噛み締める。そして古賀少年のように太陽に「ありがとう」といい、野の花に「きれいだね」と語りかけ、歌を口ずさみながら、独りで歩きたいと思うのだ。
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『たった独りの引き揚げ隊』の翌年に出た名著。迷信を廃し、サンボとソ連およびロシアという「国家」との関わりに迫る。
なお、古賀の祖父は、ハルビン特務機関がコサック1,000人を入植させて作り、ソ連侵攻後に忽然と消えた秘密の村・チョールに住み、またビクトル自身が満州国軍浅野部隊の最後を目撃しているなど、戦史好きの興味を引く話も多い。
ビクトル古賀については原書房から『裸のロシア人』という本が出ているらしいのだが、amazonでは見つからず。ちなみにgoogleさんに「裸のロシア人」について聞いたら、とても妻子には見せられない検索結果が現れました。
以下は、amazonでヒットしたビクトル古賀関係の本。正直言って、どれも惹かれる。
写真モデルは、初代タイガーマスク・佐山聡!
指一本で倒せる!
本人なのか、同姓同名か。東欧圏など世界中を旅していたので本人の可能性が大きいと思います。とりあえずポチりました。