僕は、どちらかというと「いやぁ~ 俺たちの頃はガリ版でさぁ」などと聞かされて育った「ポスト・ガリ版世代」である。それでも伝え聞く話の口ぶりなどから、ガリ版というものがその世代の人にとって懐かしい思い出を持つ、愛すべき存在であったのだろうということは容易に想像がつく。本書は、そんなガリ版文化を紡いだ謄写版と人々の物語である。
日本におけるガリ版の基礎を作ったのは、エジソンのミネオグラフをヒントに謄写版を開発した堀井新治郎なる人物である。その仕組みはロウ原紙を筆耕者が鉄筆を使い文字を掘ることで、製版を行うというもの。ちなみに、宮沢 賢治も筆耕者を生業にしていた時期があるそうだ。
ガリ版の特徴は何と言っても、小回りが利くということだ。「方術極めて簡単で婦女子といえども容易に印刷でき、一枚の原紙で500枚は印刷できる。」などと謳われ、演劇、放送、映画での台本といえば、長らくガリ版印刷の独壇場であったのだ。なお、長寿アニメ「サザエさん」の台本にいたっては、なんと2009年までガリ版印刷であったという。
グーテンベルクの活版印刷がマスメディアの先駆けとなったものなら、ガリ版はソーシャルメディアの先駆けのようなものである。当時のアルファブロガー的な存在が、足尾鉱毒事件の公害運動で有名な田中 正造。1900年前後の時期、鉱毒被害農民らとともに言論活動の主力となるビラ、リーフレット、パンフレットなどをガリ版で印刷し、多種、多量に配布することで世論を喚起することに成功したのである。
また、このような草の根メディアの発達とともに世の中のグローバル志向が高まっていたのも、現在を彷彿とさせる。ただし、関心が高まったのが英語ではなくエスペラント語だったのはご愛嬌というところか。加速するエスペラント語人気に応えるように、教科書、講習会の開催内容、学習情報などが大量にガリ版で印刷されていた模様だ。
この他にも、本書には、坂東収容所のガリ版印刷、学校文化としてのガリ版印刷など、さまざまなエピソードが収められている。これらの共同体との密接な結び付きこそが、ガリ版の魅力を高めていると言えるだろう。
「ガリ版の魅力は、その仕事にたちまち自らの魂が乗り移ることだ。これは活字やその他の版式には及ばないガリ版の独壇場である。」とは、孔版画家・若山八十氏の弁。