しまった、と臍をかんだ。頻繁にメディアに登場しているとは思っていたが、先週のテレビ番組で「今年大ブレーク必至!」と謳われ特集まで組まれてしまった作家・岩下尚史。先にあのキャラクターが刷り込まれてしまうと、素直に本の世界に入り込めなくなってしまうかもしれない。『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時…』は、数ある三島由紀夫の評伝の中でも、今後、研究者が必ず読まなければならない作品だというのに!
数年前、岩下は『見出された恋-「金閣寺」への船出』という作品を出版した。これは猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』の第3章「意思的情熱」に詳しく触れられている、三島のかつての恋人「X嬢」から岩下が聞き及んだ話を、様々な思惑から小説仕立てにしたものだ。三島の作品に大きく影響を与えたこの女性、実は岩下が10年余り前からの知人であった。
しかし“こと”は昭和の文豪、三島由紀夫の創作に関わる。三島の愛読者や研究者からの強い要望によって、きちんとしたノンフィクションとして(この言い方はお気に召さないようだが)今回実名で、語られたままに書き起こしたのが本作である。華やかな作品と衝撃的な最期で多くのファンとレッテルが貼られている三島由紀夫という作家の、ひとつの本質に到達できるのではないか、と思える告白である。
三島由紀夫の代表作のひとつである『金閣寺』、その創作前後3年間、濃密な恋愛関係にあった女性がいた。本書の主な語り手、豊田貞子である。
聞き手であり著者でもある岩下尚史は、大学時代から演劇や花街に馴染み、卒業後は新橋演舞場に入社して、新橋花柳界主催の「東をどり」の企画制作に携わっていた。豊田貞子と戦後最高の女形といわれた六代目中村歌右衛門とは兄・妹と呼ぶほど親密であったという。30年前、大学生の分際で岩下はその芸と人柄に惚れ込み、歌右衛門の後援会である成駒會に出入りするようになっていたほど心酔していたのだから、知らないわけはなかったのだ。
歌舞伎座の歌右衛門の楽屋で三島に見初められた貞子は当時19歳。赤坂の高級料亭「若林」の娘で芝居を見に行くときには女将である母から、必ず、楽屋見舞を預かり、主だった役者衆の部屋を訪ねることになっていた。うら若い女性が親しく楽屋にいるのも珍しかった。
三島由紀夫、本名・平岡公威は当時30歳少し手前。昭和24年に『仮面の告白』で文壇デビューし、人気上昇中の作家であった。しかし女には晩生の三島にとって初めての女性、それが貞子であったようだ。かねてより「知性がなく、豪華な美しさと男性の心理に反応する会話が面白い、本当に贅沢品としての女を理想である」と公言していた彼にとって、毎日、仕付け糸を取ったばかりの違う着物をまとえるほど豊かで、それでいて世間慣れした花柳界の奥を知る娘、貞子は、まさに夢に見たそのままの女であった。
ふたりの付き合いが深くなり始めた頃、三島は『沈める瀧』という作品を著す。その主人公・顕子は貞子を写し取ったものに思われる。この作品を評して作家・平林たい子は他の部分は褒めながらこう語る。
だけども、あの女の部分は、第一、どんな女か、女が読めば判りませんよ。水商売の女か、つまりクロウトかシロウトか、全然わかりませんよ。(「文藝」昭和30年12月)
豊田貞子という恋人は、正に半玄人。毎日のように会い、ナイトクラブや有名料亭、ホテルや高級旅館で逢瀬を繰り返し、着物は同じものを二度着ず、裕福な女の代名詞「日髪」(毎日髪を結いなおすこと)で目の前に現れる女を、三島は心底愛しいと思ったようだ。その時間が素晴らしかったことを裏付けるように、作家の筆は走り自ら「どんどん書ける」話すほど勢いに乗っていた。それが『金閣寺』の読売文学賞の受賞に結びつく。
貞子の話はいわば惚気話。ふたりの濃密な時間が語られれば語られるだけ、世間に向けて三島がまとった「仮面」である、性癖や性格、好みなどが覆される。芯から可愛がってもらった女から見れば、公威さんと呼ぶ男の一途さ純情さは60年近く経っても色あせることない。しかし所詮は住む世界の違うふたり。添い遂げることはできなかった。
ふたりの関係は、生涯、三島と親友であった女性、湯浅あつ子によって本書の終盤で裏付けられる。竜宮城での日々のような貞子の話と、三島の懐具合や嫉妬など生臭い実態の対比が興味深い。しかしそれが少しも醜い話ではないのだ。
冒頭から連なる少々華美とも思える美文調の語り口は、読み馴染むまでに時間がかかるかもしれない。しかし貞子の語る三島との恋愛模様と小説への影響の大きさに驚きはじめると、もうあとは一気に読み進むだけだ。テレビでみかける岩下の柔らかな相槌や笑顔に唆され、ついつい密か事を明かしてしまう上品な婦人の姿が見えるようだ。
ヒタメンとは直面と書く。能で役者が面をつけずに素顔のままで演ずることをいう。自分の素顔は自分では見られない。三島由紀夫の直面を見ることができた二人の女性からの貴重な証言である。
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文学的背景ではなく、歴史の中の三島由紀夫をたどった評伝。週刊誌の連載時から読んでいた。
処女作にして和辻哲郎文化賞を受賞した岩下尚史の作品。
貞子をモデルにして書かれたと思しき小説。すぐに買ってきた。
三島とは違って、情けない森鴎外の恋人への仕打ち。エリスが誰であったのか、永年の謎が解けた本。私の2011年度オススメの一冊。/7162
『ヒタメン』とは直接の関係はないが、幕末から江戸初期に活躍した3代目中村仲蔵の日記より書き起こした本。諸国の名産がずらり。歌舞伎に興味がある人へ。