毎年、成人式の頃をピークに「最近の若者は・・・」といった議論が、どこからともなく湧いてくる。ステレオタイプに若者を批判する者が現れたかと思うと、どこをどう間違えたか「最近の若者」という落書きは古代エジプトの壁画にも書かれていたらしいなど蘊蓄まで披露されたりする。さぞや、おいしい肴なのだろう。
孫正義という人物が語られる議論というのも、この「最近の若者」論に近いものが根底にあるのではないかと思う。先人たちの努力をないがしろにする迷惑男と批判的に論じるものから、古い世代の既得権益者に立ち向かう新世代の英雄と崇めるものまで。そこには賛否の両論が相並ぶ。
はたしてその正体はいかに?と言わんばかりに筆を取ったのが、孫正義より10歳年上の佐野眞一。団塊の世代がIT第一世代に切り込む。これを孫正義が「やりましょう!」と言ったのかどうかは知らないが、見逃すわけにはいかない一戦だ。
さて、この希代のノンフィクションライターが一体どのように仕掛けるのか。意外なことに、最初の一手は「最近の若者」論の教科書通り、レッテルを貼ることからスタートした。
誰でも感じているはずのそんないかがわしさの根源を探る。この評伝のテーマは、その一言に尽きる。
しかし、そこはさすがの佐野眞一。ただのレッテル貼りでは終わらない。孫の血脈を三代前まで遡って調べ上げ、現存する父方・母方の親族全員に会って取材し、そのルーツを追って韓国まで足を伸ばす。狙う獲物は、孫正義も知らない孫正義。レッテルを貼るのも楽ではないのだ。
そこで見えてきた孫正義の壮絶な人生。鳥栖で豚の糞尿にまみれた幼少時代。在日であることに悩みを感じる少年時代。血の濃さ故に骨肉の争いを繰り広げる親族。そして強制連行され炭鉱で働かされていた一族の波乱と被差別の歴史・・・
このセンセーショナルに描かれる「血と骨」の物語。それ自体、非常に読み応えがあるのだが、それを受けた佐野眞一の地の文がもっと面白い。
並みの根性でできることではない。この根性が、叩かれても叩かれてもへこたれない孫正義の強さの秘密である。と同時に、そのど根性は、人を辟易させる理由ともなっている。
孫一家がそうした闇商売に携わっていた期間は、ごく短い。そこで驚くべきスピードで築きあげた富が、孫正義をブレークスルーさせる最初の原資蓄積過程だった。これまでほとんど明かされてこなかったその過程にこそ、孫正義にまとわりつくうさんくささの源泉がある。
人間は数式通り生きていない。それに、数式通り生きられないのが、人間の面白さである。こうした違和感が、おそらく、私が孫に感じるうさんくささの源泉になっている。
あえてステレオタイプな観点に一度は身を置き、猛烈な取材力で様々な断層を見い出し、安直なレッテルを内側から貼り直してみせる。この著者による強烈なフレーム提示、それに伴う余白の少なさは、好き嫌いの分かれるところだろう。しかし、まぎれもなく本書のもう一人の主人公は佐野眞一だ。対象への格闘と愛。ここまでの取材力を見せられると、本当の自分って一体何だろうと考えさせられてしまう。
この周辺取材を通して著者が投げかけているのは、孫正義のいかがわしさが個人に帰する問題なのかということだ。在日ということに端を発する民族の断層、オールドエコノミーとニューエコノミーという時代の断層、エスタブリッシュメントと新興勢力という価値観の断層、脱原発か推進かというエネルギーをめぐる断層。これらは須らく、社会、国家の病と分かちがたく結びついているものなのである。
つまり著者と孫正義の間にあるのは、単なる世代間の断層のみならず、日本という国をめぐる歴史の断層であったのだ。ここに気付いた時に、著者は孫正義を簡単には否定できなくなってしまう。なぜなら、孫正義を否定することが、日本の歴史そのものを否定することであるということに気付いてしまうからである。
そしていったんは鞘におさめた矛先を、今度は実業家としての孫正義に向ける。有名なソフトバンクの「新30年ビジョン」、この中で孫正義は今後の情報革命にふれ、30年後に紙の新聞、雑誌、書籍などほぼ100%ありえないだろうと言い切った。これに対して、著者は以下のように切り返す。
私はそれを聞きながら、あなたが言う「情報」というのは、記者なり作家なりが、汗水垂らして一つ一つ集めたものだよ、それをそんなあっけらかんと言っていいの、他者に対するそのリスペクトのなさが、あなたをいかがわしい人間に見せていることにあなたはもう少し自覚的になった方がいいよ、と胸の中でつぶやいた。
この議論、おそらく決着はつかない。片やコンテンツ屋としての著者と、インフラ屋としての孫正義。ここにはレイヤーの断層がある。情報流通の仕組みなき議論は、永遠に平行線をたどるだけだ。
それでも尚、著者が執拗に繰り返すのが、孫正義がこれまで歩んできた過去と、彼が見据える未来があまりにも対照的であるということだ。分かりやすい例の一つとしては、肝臓を患っていた時に1年間に1000冊もの本を読んでいたほどの読書家が、ビジネスの話になった途端に得難い読書の身体性を簡単に忘れ、電子書籍礼賛へと舵を切っているということがあげられている。
そして著者が孫正義の未来像に突きつける問いかけも、大いに考えさせられるポイントだ。
孫が最終的に目指すという、誰もが情報の発信者になれるという社会は、本当に理想郷なのだろうか。それは究極の民主主義に見えて、実は究極の愚民社会になるのではないか。
想像を絶する過去を歩んできた男が語る、想像もつかない未来。”身体性”100パーセントの世界から、”身体性”0%の世界への跳躍。この孫正義という一人の人物に共存する二つの世界こそが、本書の大きなテーマと言ってもいいだろう。孫正義をかくも誘ったのは、故郷喪失感なのか、過去への嫌悪なのか、はたまた革命家であるがゆえなのか。
考えてみれば、孫正義ほどレッテルの貼りやすい人物はいないのではないだろうか。たった一人の人物に投影された、長年に渡る日本の歪み。どれだけ年月を重ねようとも、どの角度から見ても、孫正義こそが永遠の「最近の若者」なのだ。
そして特筆すべきなのは、取材後に孫正義が著者に語った以下のコメントだ。
しかし、佐野先生の取材力はすごいですね。僕も随分勉強になりました。
この孫正義の度量にこそ、学ぶべき点があるだろう。その結果は、本書の質の高さという形にも見てとることができる。レッテルを貼られる側の懐の広さ、そこに対話の糸口があるのだ。
いずれにしても思うのは、何歳になっても「最近の〇〇は」などと揶揄される側であり続けたいものであるということだ。レッテルを貼られ物議を醸し出すからこそ、そこには進化の芽があるのだろう。そういった意味において、本書は「最近の若者」にも「逃げ切り世代」にも、「ゆとり世代」にも「団塊の世代」にも、「みゆき族」にも「太陽族」にもオススメの一冊である。
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ビジネスの現場に潜む、さまざま世代論の罠。旧来型の世代ラべリングを解体し、若い世代を再ラべリングしてみせる。このラベルの貼り方が抜群に上手い。情報に煽られてベンチャー系の企業に転職したがる”活き作り系”。抑制が強くじっくりと自分のキャリアを作ろうとする”煮込み系”。適度にホットな環境で、本人もそれを楽しんでいる”揚げ物系”。会社にいながらも企業社会にどこか懐疑的で、穏やかな社会をイメージしている“漬物系”。その特徴から、各々に効きやすいメッセージなど。
Twitter上でのやり取りがきっかけで生まれた、孫正義氏と佐々木俊尚氏の対談。論点となったのは、インフラが先かアプリが先か。今回あらためてこの本を通読してみたのだが、一年以上前に書かれたのにもかかわらず、内容がまったく色褪せていないことに驚く。日本のITは、はたして進化しているのだろうか?