入社後2、3年の若手社員が会社を辞める時に、「電通を辞めました」だとか「博報堂を辞めました」などとブログに書いて話題になることがある。そういうものを目にするたびに感じるのが、この時代の節目に30代を迎えているという自分自身の宙ぶらりんさ加減である。別に会社の管理職でもないので「会社に対して失礼だ」などとは思わないのだが、その論調を素直に応援しようという気にもなれない。せいぜい無関心を装うのが、関の山だ。
そんな昨今の風潮から考えると、本書もいわゆる「〇〇辞めました」という文脈の中に位置づけられるものかもしれない。しかし、少しばかりモノが違うのが、その決断が10年以上会社を勤めあげた30代の人間によるものであったということ、そして、その顔と名前を皆に知られている全国区のアナウンサーによるものだったということである。
あらかじめお断りしておくが、著者の菊間 千乃さんとは古くからの友人である。本書も本人から直接頂いたものだ。初めて彼女に会ったのが、僕がまだ大学3年生の時だったから、かれこれ15年くらいの付き合いになる。その間に、彼女と全くの音信不通になった時期が3度あった。
1度目は忘れもしない1998年9月2日。アナウンサーが生放送中に5階建てのビルから転落ーーそんな前代未聞の事故が起こった時のことだった。その時テレビを見ていた僕は、本当に驚いた。何しろ、ブラウン管の向こうで慌てふためいているのは、前日まで僕が一緒に働いていた中継スタッフの人達だったからだ。
僕の大学生活は「めざましテレビ」でのアルバイトに明け暮れた。「それ行け!キクマ」という生中継のコーナーで、アナウンサー、ディレクター、AD、アルバイトなど、スタッフ間の垣根が全くない一つのチームとして、今日は群馬、明日は神奈川と関東近郊を駆けずり回っていた。事故が起こったのは、翌年3月に控えた就職を前に、僕がアルバイトを辞めた次の日だった。
当時の自分の役どころを過信するつもりなど毛頭ないのだが、いつもと違う現場の空気が何か事故に影響を与えてしまったのではないか、そんな心のしこりのようなものは15年近く経った今も消えることがない。
2度目は未成年タレントとの飲酒問題のとき。自らが撒いた種とはいえ、この時会社から下された処分は無期限謹慎という厳しいものであった。そりゃあ、連絡も取れなくなる。そして3度目が、今回の司法試験への挑戦の時であった。
本書はこの飲酒問題から司法試験の挑戦へと向かう、彼女の30代における転機を描いたものである。ちなみに最初の事故の時の模様は、彼女の前著『私がアナウンサー』に詳しい。
何といっても僕が興味深く見つめたのは、彼女がアナウンサーを辞めるに至ったプロセスの根っこの部分である。彼女に限った話ではないのだが、僕が感じるアナウンサーの凄みとは、一言でいうと「空気の達人」というところにある。番組全体の舵取りとして、バランスを保つことが最大の仕事であり、ある程度、予定調和を求められることもある。その中で彼女が感じた違和感は、マスコミ報道の主体の在り方という点にあった。
伝えっぱなしの仕事が無責任なようで、もう一歩先に、踏み込みたいという気持ちがどんどん強くなっていった。「大変ですね」「まだまだ混乱は続きそうです」「しっかりした検証が必要ですね」など、座りのいい言葉を並べて終わる番組は偽善者のようで、居心地が悪かった。
この時に「しっかりした検証が必要ですね」と言っている主体は、テレビ局なのか、番組なのか、自分自身なのか。実名で名前を晒しながらも、発言の主体は空気のように掴みどころがない。そんな悩みを彼女が感じたのは、ソーシャルメディアの影も薄かった2007年のことだ。
マスコミは一体誰の声を代弁しているのか、そんな問題に一番早くから気付いていたのはマスコミ自身だったのかもしれない。そして彼女は、ブラウン管越しに情報を発信することよりも、直接社会と向き合うことを選択する。
そして後半からは、彼女の司法試験への挑戦記へと展開する。「〇〇辞めました」のエントリーの先に一体どのような世界が待ち構えているのか、想像してみてほしい。才色兼備と形容されることも多い女子アナが、全ての退路を断ち、何者でもないものとしてロースクールに通い、就職活動まで行う。その姿は、どこまでも泥臭い。
私にはこんな普通の日常が再び訪れるのだろうか・・・先の見えない不安。自分は一体何をやっているんだろう、この年になって、社会の役に立つような生産的なことも何せず、勉強だけしてていいんだろうか、悲観的に今の自分を責め立てる気持ちが広がって、いやぁな気分になった。
ロースクール制度とは、基本的にはロースクールで3年間きっちり勉強すれば、司法試験には7〜8割は合格するという触れ込みで始まった制度である。しかし実際のところ、2011年現在の合格率は25%前後であるという。そして与えられたチャンスは3回のみ。
このロースクールにおける生徒同士の人間模様は、実に不思議な関係だ。志を同じくし一緒に勉強をする仲間でありながら、同じ椅子を奪い合うライバルでもある。そんなギリギリの状況の中に、生まれた奇妙な連帯感。
しかし、全てが順風満帆であった訳ではない。一回目の試験終了後、突然彼女は週刊誌の記者に声をかけられる。この手の煩わしさから解放され、受験勉強に専念するべくアナウンサーを辞めたというのに、その思惑は台無しにされてしまう。かつて取材する立場にいたがゆえに、無責任に取材される立場に身を置くことは彼女を追い詰める。
それでも、アナウンサーとしての経験が役に立ったことも多々あるそうだ。模擬裁判で自分が想定した答えが引き出せた時の達成感や、予想外の答えが出てきた時の切り返しの瞬発力は、生放送の仕切りと似ているのだという。何のことはない、本当は敵も味方も、アナウンサーであったという彼女自身の中に存在したのだ。
標題からもお察しの通り、彼女はやがて弁護士への切符を勝ち取る。そこで彼女が手にしたものは、はたして何だったのか?
キャリアに正解のない時代と言われて久しい。本書の中に書かれているのも、答えではなく問いかけだ。「自分は今、何をすべきなのか」「自分はどうありたいのか」、そんな断続的な問いかけの先に答えはある。答えは点ではなく線なのだ。そして、彼女の引いた線は不格好だが力強くて太い。
漠然とした不安を抱えながらも目の前の仕事に向き合っている一人の30代のビジネスマンとして、また一人の友人として、僕は本書を全力でオススメしたいと思う。そして、再び10年後に出るであろう彼女のその後を描いた次回作を、早くも心待ちにしている。
本文中でも触れたが、生放送中の事故による闘病とリハビリ、そして復帰までの道のりを綴った手記。胸椎、腰椎、肋骨、せん骨の骨折という重傷、三日以内に痺れがくれば下半身不随の可能性も。そんな逆境と、彼女はどのように向き合ってきたのか?
著者は”最も影響力のある国際ジャーナリスト”に選ばれた一人。中東特派員の5年間の経験で直面した現実の数々。一つの状況は多面的なのに、メディアは一つの側面を選ぶしかない。しかも、その際に選ばれるのは大体広く行き渡ったイメージを補強するものばかりであったという。観点を一つに絞って物事を提示するためには、多くの事柄を除外し単純化しなければならない。それはつまるところ、読者を操作するということではないか、そんな問題提起を行っている。