正月早々、2日酔いと体調不良でこの原稿を書いている。ただし、いくら辛くても読書はやめない(しかし代表は「本絶ち」を実行しているらしい)。飲む前に読み、飲んでいても読む。飲んだあとも読むのだ。
しかし、酔っ払った後、苦しみながらもなぜ深夜から明け方にかけてこの原稿を書いているのか、今日までに書かねばならぬことも、あれだけ飲めば苦しくなることも、全部わかっていたことなのに……。
実は、今まさに読了した本書に、その答が書かれている。私は、二日酔いという当然の帰結を、そして締切を、「見て見ぬふり」していたのだ。
この本における「見て見ぬふり」という言葉は、われわれがイメージするところのものと少し違う。
例えば、自分のパートナーが自分の子どもを虐待している場合、ほとんど決定的な場面を目撃したとしても、虐待はありえない、と思ってしまう。自分が愛し、なおかつ自身の経済的基盤となっているもっとも頼るべき人が、自分の子どもを生命の危機に晒しているーーこれは自己の実存がその場で崩壊してしまうような大事件であり、今後の自分の生活のすべて狂ってしまう事態だ。
そこで多くの人は自らの意志で、目を閉じてしまう。虐待の事実を理解したうえで「見てみぬふり」をするのではなく、事実を理解することをやめてしまい、虐待が発覚し事件になってもその事実に「気づかず」、ときには、どんなに明白な証拠があろうと否定し続けるのだ。
あるいは、次のような例。胎児へのレントゲン検査が発がん死亡率を劇的に増加させることを示したアリス・スチュワートの論文が発表されたのは1958年のことだ。しかし実際にアメリカの医療組織がそれをやめるよう「強く推奨」したのは1980年である。医療界にとって、これまでの医療を否定する彼女の論文は受け入れがたいことだった。加えて彼女は胎児に対しては閾値がない、という医学の常識に挑む重大な説を唱えた。医療の常識を覆すと同時に「権威があり、賢く、善良で人の命を救う存在である」という医者のイメージそのものを崩壊させかねない彼女の主張への反発は強固であった。そのためその後何十年間にわたって死ぬ必要もない子どもたちが死んでいったわけが、医学界の権威にとっては、重要なのは前者なのだろう。本書では、そういったかたちで事実から目をそらすことも「見てみぬふり」の範疇として捉える。
本書の内容からはずれるが、放射線との関わりでいえば、現在のCT検査も同じ構造を持っていると言えるかも知れない。実はウチの娘も2歳のときに階段がら落ちたとき、「CTしましょうか?」と医者らに勧められたが、一人の看護師さんだけが「乳幼児にCT検査なんてとんでもない」とわれわれにそっと言ってくれたため、結局検査を受けなかったことがある。本書でも触れられている有名な「ミルグラムの服従者の心理」を考えれば彼女は相当のマイノリティだろう。加えて言えば、もしこのときCT検査を受けていたら、私は仮にCTによる被ばくと発がんリスクが明白になったとしても、それを否定するようになったかも知れない。誰でも自分が間違ったことは認めたくない。これも本書でいう「見て見ぬふり」である。
その他、グリーンスパンの金融政策の誤りから、イラク戦争におけるアブグレイブ刑務所での捕虜虐待、サブプライムローン問題、スペースシャトル・チャレンジャー号の打ち上げ失敗なども俎上にあげられる。アッシュやミルグラム、「ゴリラの着ぐるみ」の錯覚の科学など、有名な実験も次々登場しつつ、現実に起こった事象と心理学上の理論を「見て見ぬふり」という視点で串刺しにしてゆくのだ。
原文では、「Wilful Blindness」。直訳すると「故意(恋?)の盲目」なんていうだじゃれめいた感じになって楽しいが、やはり「見て見ぬふり」が最善の訳語か。ただニュアンスがどうにも違ってきてしまう部分もあり、訳者の仁木めぐみさんも苦労されたことだろう。この「Wilful Blindness」は19世紀で生まれた法的概念(スペルのlがひとつ足りないので英国生まれの言葉か)。「知り得る立場にあるものが敢えて知ろうとしなかった」ことも罪になることを指すという。本書では、心理学的に、あるいは脳の機能上、人が「見て見ぬふり」に非常に陥りやすいことを述べているが、だからといって、それを仕方がないこととして認めているわけではない。「それでもそれは、明らかに罪だ」という主張が表題に込められているわけだ。
私がそうであったように、多くの人が、本書を読み進める間じゅう、福島第一原発事故のことが頭から離れないであろう。実際、著者も「日本版刊行に寄せて」と題されたまえがきで、「見て見ぬふり」による人災の「顕著な例」としてこの事故に触れているが、まえがきのみならず、全編を通じて日本の現状について、多くの示唆を与えてくれる。
「Wilful Blindness」は罪。ならば、東電や日本の原子力研究には「罪」が溢れている。しかしそう思うと同時に本書に書かれた「傍観者効果」という言葉が胸に刺さった。傍観者が多ければ多いほど、罪は進行してゆく。それどころが、大量虐殺や集団暴力は、傍観者がいないと成り立たない。犯罪者は傍観者を自らを支持する者とみなし、犯行をエスカレートさせるのだ。私は、ついつい、どこかにいる「彼ら」についての本と思って本書を読んでいたが、それ自体が実は「見て見ぬふり」であり、本書は私自身について書かれた本だったのである。
私は現実を直視せず、無批判に服従し、傍観することで罪を加速させ、他人を助けず、倫理観を崩壊させて平然と生きる動物だ。しかしそれを自ら認識することで、そこから脱却することもできる。最終章「見て見ぬふりに陥らないために」に引用された『リア王』の「もっとよく見てください」という台詞が頭に響く。今年こそは、本当にクリアな視界を獲得したい、と(二日酔いでうつろな目をしつつも)強く思うのである。
________________________________
20世紀最大の「見て見ぬふり」のひとつが、ナチスによる「最終的解決」だろう。それをヒトラー側近という立場でそれを「見て見ぬふり」したシュペーアの証言。