2012年が静かに幕を開けた。師走の忙しなさが、一晩明けると打って変わって落ち着きを取り戻す。僕は、この正月の静けさが大好きだ。
それにしても、正月を正月たらしめているものとは一体何なのだろうか。街で見かける しめ縄や飾り付けなのか、遠くから聞こえるBGMのお琴の音色か、それともお節料理の香りや味付けか?はたまたカレンダーによる日付の概念なのか?
もちろん、これが一つの感覚のみに依存しているとは限らない。ヒトは誰でも、視覚、聴覚、味覚などの諸感覚を相互にリンクさせたり、感覚によらない知識と結びつけたりすることで、器用にシステムを運用しているのだ。
これらの多感覚知覚と呼ばれる機能は、多様で絶妙にバランスが取れた情報交換の上に成立しているそうだ。しかし、このバランスを感覚の「洪水」ないしは感覚遮断というかたちで壊してしまうケースがあるという。それが、共感覚と呼ばれるものだ。
本書は、そんな共感覚という世界の実像に限りなく迫った一冊。今年最初のオススメ本である。
共感覚とは、少数の人に見られる生物学的な基盤を持ったリアルな現象のことだ。とはいえ、決して不具合ではない。治療が必要な病理でもなければ、人の同情を必要とするたぐいの「境遇」でもないのである。
共感覚者は、あたりまえの世界を、あたりまえではないかたちで経験しているという。言葉には味が、名前には色がそれぞれ伴い、数字の連なりは空間内を進んでいく。共感覚の大半の定義では、通常の感覚に加えて別の感覚が存在するという点が強調されている。
例えば本書で紹介されている三歳の男の子のケース。射撃場で聞こえる銃声の音を「黒い音」と言い、遠くから聞こえてきた騒々しいコオロギの鳴き声には「赤い音」と名付け、ひどく低音でもないカエルの鳴き声は「青い音」と言い張ったそうだ。
またこの他にも、アルファベットや数字に色を感じるケース、触覚や痛みに色を感じるケースなど、視覚、触覚、味覚、臭覚、聴覚にまつわる様々な感覚の事例が紹介されている。
このように知れば知るほど分からないことが多くなっていく未知の世界ではあるのだが、共感覚には遺伝子が大きく関与しているということ、先天的か後天的かによって大きく特徴が異なることなどが、分かっているそうだ。
そして、未知の領域であるがゆえに可能性も大きい。異彩を放つ芸術家の中に共感覚の持ち主だった可能性がある人物も数多く存在するし、かつては共感覚を芸術に取り入れる試みなども行われていたという。また芸術の分野だけでなく、ダニエル・タメットのように驚くべき計算力や記憶力を保持している人物も存在する。
共感覚をテーマにした本というのは、これまでにも比較的多く世の中に出てきた。しかし、その多くは共感覚の持ち主による主観をベースに構成されている。だが一口に共感覚と言っても、特徴は多種多様なのである。本書は様々なケースの個々を相対化し、そのメカニズムに迫っているという点で、頭一つ抜けている印象だ。
また、中でも特徴的なのは、共感覚の世界をイメージさせるために空間というものに着目している点である。空間とには複数の感覚系を一つにまとめ上げる特性があり、世界を知覚する場合には必ず空間が伴うものなのである。
空間情報には相反する二つの情報源があると説明されている。それが、視覚情報と固有受容感覚情報というものだ。視覚情報は、言わずと知れた網膜から入力された情報のこと。 固有受容感覚とは、筋肉や人体にある受容体を通じて、関節の位置をコード化する感覚のことである。そして我々は、それぞれの感覚に対応した空間地図を脳内に複数持ち合わせているのだ。
例えば目の前の机にあるコップを取る時のことを、思い浮かべてみて欲しい。コップの位置を確認するのは視覚情報の役割である。その際の網膜地図の起点は、凝視の中心点にあり、他の点は、この中心点からの距離と方向で表現される。
ところが、いざコップを手に取る際に、自分の手の位置を視覚で確認する必要はない。この時には視覚情報とは別の脳内地図が関与しているのだ。それが固有受容感覚というもので、手のある場所を感覚的に掴むための役割を担う。そして、そこには両手を基点として描かれた地図が存在しており、地図内の座標軸は手からの距離で示されている。
これらの二つの脳内地図を重ね合わせることで共通の参照点が見つかり、地図の尺度が同じになるような座標変換を行うのが、通常の多感覚知覚と呼ばれるケースの場合である。
これが共感覚者の場合、どのような座標軸になるのか?例えば共感覚によって数字を空間化して捉えることができる人の場合、まず数字が身体の周りにフラフープのように現れたり、目の前に一本の線となって現れたりするという。そしてこの状態は、目を動かしたり、頭の位置を変えたりしても変わることがないそうだ。要はこのケースの場合、胴体が、共感覚地図の基点になっているということである。そしてこの他にも、頭の位置が基点になっている場合、文字のような視覚で捉えられる対象自体が基点になっている場合など、様々なケースも報告されているそうだ。まさに座標軸の違いが生み出すパラレルワールドのような世界なのである。
このような説明により、共感覚を持たない人でも、まざまざと共感覚の世界をイメージすることが出来る。しかし、ここまで来ると誰しも思うのがこのような感覚をトレーニングによって身につけることができないものかということであろう。しかし、この点について、著者はきっぱりと「懐疑的である」と明言している。
残念ながら、僕は共感覚に近しいものを持ち合わせていない。また、このような感覚を身につける術も断たれている模様だ。しかし、注目したいのは下記の記述である。
共感覚により、脳地図間のコミュニケーションは過剰なまでに密となる、その結果、活性化された脳部位と強度に応じて、共感覚をはじめ、一見、無関係に思われる様々な概念や発想が結びあわされる傾向、つまりは創造性が生み出されていく。
あくまでも私見だが、僕はこれに近いことが読書を通じて補うことができるのではないかと信じている。
そして、いずれにしても大事なのが、共感覚を持っていようと、持っていまいと、自分なりの「世界の眺め方」が出来るということなのである。そのために、今年も差異のある読書、差異を知るための読書、差異を生み出すための読書を、ガシガシと進めていきたいと思う。
皆様、どうぞ本年もよろしくお願いいたします!
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この手のテーマを描かせたら天下一品のオリヴァー・サックス。その最新刊と古典的名著。最新刊では脳神経科医でありながら自身も視力を失った体験談を織り交ぜて、さまざまな症例の患者を描いている。興味深いのは、読む能力を失ったカナダの作家のケースだ。読むときに舌を動して、歯や口蓋に文字の形をなぞるようになり、やがて文字が読めるようになったそうだ。脳の可塑性により別の機能が発達し、舌で文字が読めるようになったということなのである。
共感覚とは少しテーマが違うのだが、人間の認知を「視覚優位」と「聴覚優位」に分けて解説した一冊。「視覚優位」の代表としては建築家のガウディ、「聴覚優位」の代表として小説家のルイス・キャロルの事例が取り上げられている。著者は室内設計家の岡 南氏。視覚優位の持ち主とのことで、「小学生の頃、頭の中になぜかカエルを左斜め上から見ている映像があり、そのまま手というプリンターを使い、写していました」というエピソードが紹介されている。