オーストラリア、メルボルン出身の著者マーク・カーゼムは、オックスフォード大学で人類学を研究していた。大学の帰りに馴染みの書店で大量に買い込んだ本を抱えて下宿先に帰宅したマークの目に一枚の紙切れが飛び込む。
ダフネノ トコロ ニ チチ
この特徴ある文字の書き方は父に違いない。東ヨーロッパ出身でありながら、オーストラリア移住後はヨーロッパを訪れることを嫌っていた父がなぜ急に?母親との間に何かあったのか?それとも弟たちに何か?様々な疑問を頭に浮かべながら向かいの年配女性ダフネの家へ向かった著者を出迎えた父は拍子抜けする程にいつも通りだった。特に重要な話を始めるわけでもない。いったい地球の裏側まで何しに来たのか。
父がオックスフォードに来てから特に何も変わったことはなく、ただ1週間が経った。帰国の日に空港に向かう道すがら、これまた突然父は語り始める。
パノク、それにコイダノフ
この地名だか人名だかわからない暗号のような言葉が、父が何者であるかを明らかにするための重要な鍵らしい。しかし、この2つの言葉が何を意味するのかは当の本人さえ忘れてしまっている。ただ、自分にとって大切な言葉であることを覚えているのみだ。
昔から著者は、父は第二次世界大戦中の幼いときにロシア人の豚飼いである両親からはぐれてしまい、凍てつく森の中を長い間放浪しているところをラトビア人兵士に発見されたと聞かされていた。その後は軍の知り合いの家で育てられ、戦後オーストラリアに渡ったのだと聞かされていた。父はそれ以外の何者でもないはず。混乱する著者に父は続ける。
恐ろしいことが起きたのだ
いったい何が起きたというのか。じりじりする著者を尻目に話はなかなか動き出さない。何しろ話し始めた本人がこんな調子だ。
いや、忘れてくれ。何でもない
本書の物語はいささか不可解なこんなシーンから始まる。この話はいったいどこへ向かっていくのだろうと不安になる。また、話が進んで1つの謎が解けたと思ったら、また新たな謎が浮かび上がり、簡単には物語の本質へたどり着けない。しかし、なかなか核心を伝えられない父にやきもきする著者につられてページをめくれば、期待を裏切らない展開が待っているので安心して読み進めて欲しい。推理小説を読んでいるような感覚をおぼえるかもしれないが、本書は紛れもないノンフィクションである。
書名にあるように、著者の父親はユダヤ人でありながらナチス突撃兵と行動を共にすることとなり、彼らのマスコットのように扱われていた。父がユダヤ人であることを知る者はごく一部であり、その他の兵士にユダヤ人であることがばれないように、着替えには細心の注意を払っていた。割礼の痕を見られてしまえば命はないからだ。
時には傷つく兵士の激励に借り出され、また時には彼らの子どものように振舞うことで厳しい戦場の雰囲気を和ませた。戦場でのそんな姿はすっかり軍隊での話題となり、様々な新聞、ニュースで取り上げられた。また、父を主役とした映画まで作成される程の人気者ぶりだ。しかし、楽しいことばかり起こるはずもない。同胞の悲劇を、悲劇をもたらしたナチス側の一員として目撃するという運命のいたずらとしか言いようのない場面に遭遇することとなる。
という風に著者の父は語るのだが、父の記憶は曖昧で、手にしている証拠も幼少時代の古ぼけた写真などの非常に断片的なものだけ。なぜ彼を見つけたクーリス軍曹はユダヤ人である彼を殺さなかったのか。クーリスに見つけられるまでの数ヶ月間、子どもが凍てつく森の中1人で生きていけるものなのか。そもそも幼い父が一人で家を飛び出すきっかけとなった“あの言葉”を母は本当に言えたのか。
真実を突き止めようと、父の話を信じてあの手この手を尽くす著者は大学のツテを用いて、歴史家のM教授に相談を持ちかける。しかし、その反応はそっけないものだった。
全くなかったとは言いきれないが、細かい事実の全てがそうだとも言えない。いくつかの話は奇想天外で、ありえないというしかない
読み進めていく途中で、きっとあなたもこのような思いが頭に浮かぶだろう。何しろ、あれよあれよという間にイスラエルの諜報機関、過去に近づこうとする著者たちを妨害する謎の集団まで登場してくるハリウッド映画のような展開である。
「パノク」「コイダノフ」とは何なのか。
真実はどこにあるのか。
一度ページをめくり始めたら、その手を止めることはできない。
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人間の記憶がいかに曖昧なものかを様々な研究でしっかりと実証する骨太サイエンス本。この本を読むと自分の過去が少し揺らぎます。レビューはこちら
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こちらは「映画みたいなホントの話」が、やっぱり映画になっちゃたという一冊。マイケル・ルイスの本はどれも面白い。『世紀の空売り』は特にオススメ。期待の新作『Boomerang』も来年には邦訳が出るようなので、非常に楽しみ。