小林照幸『死の貝 日本住血吸虫症との闘い 』(新潮文庫)が注目されている。4月24日に上梓されて以来、現在4刷、累計2万6千冊のスマッシュヒットだ。26年前の1998年に出版された本が、なぜいまこんなに注目を浴びているのか。以前より小林照幸の本を”激推し”してきた東えりかと、医学者・仲野徹が話を聞いた
仲野 『死の貝』は昔読んだ記憶があったけれど、文庫化されたのも20年以上時間が経ってからだし、こんなに注目されることってある?と不思議になりました。どうして突然文庫化されたんですか?
小林 それは新潮社さんからご説明頂きましょうか。
編集部 もともと新潮社の営業部と未来屋書店で、月に一回、情報交換の定例会議をしています。そのなかで女性書店員さんが「そういえば『死の貝』という幻の本があるんですよね」と話し始めたんです。ここ数年、熊が出没し暴れるニュースがあると必ず“三毛別羆事件”が取りざたされ、吉村昭『羆嵐』が評判になると。
そのたび「Wikipedia 3大文学」と呼ばれるWikiで読み応えのある項目がSNSで注目され、“三毛別羆事件”と同時に“八甲田雪中行軍遭難事件”の新田次郎『八甲田山死の彷徨』と“地方病(日本住血吸虫症)”が話題になっていたと聞きました。でも、“地方病(日本住血吸虫症)”の主要参考文献である『死の貝』の本だけが手に入らない。古本市場でも1万円を超える高額で、出版から時間が経っているので図書館にない場合も多い。読みたい人が多いのに読めないというのです。
ならば、『羆嵐』も『八甲田山死の彷徨』もある新潮文庫で、文庫化できないか、それで3冊同時にフェアみたいなのをできないだろうか、という提案を貰ったのがきっかけでした。営業部から連絡があり、編集長と私が親本を読んで「これはいい」と結論を出し、小林さんに打診をしたのが去年の10月。快諾をいただき、問題なく新潮文庫にはいることになりました。
東 小林さんはこの「Wikipedia 3大文学」に日本住血吸虫症が入っていて、『死の貝』が話題に上っていることは知っていたんですか?
小林 2016年にWikipedia日本語版が15周年を迎えたとき、それを報じた共同通信の記事では、Wikipedia日本語版における「秀逸な記事」として専門家も高く評価している例には“地方病(日本住血吸虫症)”がある、と注目して紹介していました。その時には既に「Wikipedia 3大文学」として話題になっていた、と思われます。
東 それにしても吉村昭氏も新田次郎氏も、いわば日本の文豪ですよね。そこに小林照幸氏という若いノンフィクション作家が入っている、というのは面白いですよね。多分、いまでも小林さんってすごい老人だと思っている人がいるかもしれませんよ。だって『死の貝』がでたころ、まだ小林さんは20代だったんじゃないですか?
小林 『死の貝』の親本は98年7月に出ました。私が30歳の時です。同じ98年の4月に『朱鷺(トキ)の遺言』(中央公論新社・中公文庫・文春文庫)を上梓していて、刊行直後に『朱鷺の遺言』を東さんが『本の雑誌』で激賞してくれて、本当にうれしかった。『朱鷺の遺言』の作業と並行して『死の貝』の作業も進めていたわけですね。
東 小林さんが『毒蛇』(TBSブリタニカ・文春文庫)で第1回開高健賞の奨励賞を取った時が薬科大学在学中の23歳。そこからフィラリアや日本住血吸虫の本が出て、私は面白いと思ったけど一般には受けないよなあ、と感じていました。
でも『朱鷺の遺言』は絶対に受けると思った。日本の自然保護の嚆矢となって“ニッポニア・ニッポンの絶滅への過程”が、克明に記録されたんですよね。読後に感じた絶望感といったらなかったもの。まさかね、そのあと20年経って、中国から入れたトキの繁殖が成功して、いまや佐渡の空を飛びまわっているなんてこと、想像もしませんよねえ。日本住血吸虫症については、医学界では有名な話だったんですか?
仲野 医学部の授業で習いますからね。昔の病気ですが、中間宿主のミヤイリガイの発見者でもある宮入慶之助の名前はむちゃくちゃ有名ですからね。(参照:宮入慶之助記念館 )
小林 中間宿主のミヤイリガイを絶たねば日本住血吸虫症は克服できない、ということでこの貝を、死をもたらす存在「死の貝」として研究者や住民は根絶するための諸々の対策を行うしかなかった。安全性の高い治療薬もなかった時代だったゆえに、貝をコントロールするのが有効手段だったわけです。そして、日本は世界で初めて「日本住血吸虫症」を克服した国となりました。現在は感染の恐れはなくなったにせよ、甲府盆地の一部にまだミヤイリガイは生息していて絶滅危惧種に指定されています。毎年、甲府盆地で採集して研究室で飼育している医学部はあります。
東 どうも小林さんの書かれる作品は、根絶とか、滅亡とか、無くなってしまったモノに対する作品が多いですよね。
小林 最先端を追いかける人は多いし、先達者もたくさんいます。でも日本が誇る医学的な事柄で、病気の原因をさぐり、「今は昔」の安心感をもたらした公衆衛生の金字塔の秘史をきちんと残したいと思ったんです。それは最初に調べ始めた、奄美・沖縄のハブの血清づくりに取り組んだ医師を描いた『毒蛇』からで、フィラリアやマラリアのことを調べ始めてもいました。
フィラリアはマラリア同様に蚊が媒介して、マラリアと比べれば、生命への直接的な危機はないけれども、手足や陰嚢が大きく膨れ上がり、ズボンはおろかパンツも履けない、移動も不自由になることで心身に多大な苦痛を与えてきました。それも、世界的に見ても特筆すべき大流行地だったのが奄美・沖縄をはじめとした日本の南西諸島でした。「醜い」ということで家族や地域での差別も強くありました。フィラリアをどうしても描きたい、マラリアの現場も見て回らねば、と思い、薬学部を中退して物書きの道に進んだわけです。中途半端には出来ないな、と思ったんですよね。
東 だって『毒蛇』で第1回の開高健賞の奨励賞を取ったのは23歳でしょ? 驚いたものなあ。
小林 日本で戦後、日本住血吸虫、フィラリアはじめ多くの寄生虫の対策に取り組み、克服に導いたレジェンド的な研究者の先生がまだまだご存命で、その方々のそばで見ていられる、直接話を聴く機会を逃したくないと思ったのですね。
たとえばマラリアの研究をしようと思えば、外国で数カ月滞在が必要になる。学生でその場にいることは難しかった。それに1992年2月に第1回の開高健賞の奨励賞を頂き「どんなことがあっても、書く道に進まねばバチが当たるぞ」と思いました。第1回目は正賞が出なかったのですが、プロ・アマ問わず、国内外25カ国から776作品も集まった上で最終選考が7作、その1席でしたから。
選考委員は50音順に大宅映子、奥本大三郎、椎名誠、立松和平、谷沢永一、C・W・ニコル、向井敏の先生方で、開高先生が亡くなられて2年半にも満たない中、開高先生ともゆかりのあった先生方の厳しい選考も経たことで「これは学生をやりつつ、取材して文章を書くなんて生半可な気持ちじゃダメだな」と思ったんですよね。
贈賞式で開高夫人の牧羊子先生、賞の運営委員のお一人で、賞の協賛企業でもあるサントリーの佐治敬三会長にお目にかかれ「期待していますよ。頑張りなさいよ」と激励されました。単なる激励であったかもしれないけれど、23歳の自分には「書く道以外に進むことは許されない」と直立不動で真剣に受け止める以外、感じようもなかったわけです。若気の至りでしたけれども「開高先生の賞を頂いたのは責任重大。とにかく書かねば」と熱くなりました。
仲野 あの時代が寄生虫の専門家に話を聞けた最後のチャンスだったと思いますね。いまは多くの方が亡くなられてしまったけど、若い小林さんが話を聞いたことで現在に残ったことがたくさんあります。きちんと世に残されたことが素晴らしい。
小林 ありがとうございます。当時、寄生虫の根絶に関わった1940年代から60年代に活躍した先生方は、いまではもう伝説です。そういう先生方にじかにお会いでき、さらに気軽に会いに行けるほどかわいがってもらったというのは、いま思うと財産です。手書きの資料や文献、開くとバラバラになってしまうような本もずいぶん見せてもらいました。
仲野 小林さんが調べていた80年代終わりから90年代半ば、寄生虫学がもうダメというか、ほとんど免疫学教室に替えさせられ先が無いと思われた時に、聞きに来てくれたことが嬉しかったでしょうなあ。
小林 知りたいことはたくさんあったので、会いに行くときに開高健賞奨励賞の『毒蛇』の本を名刺代わりにすれば、皆さん、快く話をしてくださったんですよ。一般向けに書く、ということも協力してくださった理由でした。学者ではない書き手がサイエンス・ノンフィクション(当時、そういう言い方はなかったと思いますが)書くことが、珍しかったのかもしれません。寄生虫根絶の先達者に話を聞きたい、という思いがすごく強かったですね。
東 私は『毒蛇』からずっと小林さんの本を読んできて、このジャンルは絶対に必要だと確信していたんです。まさかに二十数年経ってこんなに注目されるとは思わなかったですけど。
まだフィラリア根絶の『フィラリア 難病根絶に賭けた人間の記録』(TBSブリタニカ 1994年)にしてもミバエ根絶の『害虫殲滅工場 ミバエ根絶に勝利した沖縄の奇蹟』(中央公論新社 1999年)にしても、文庫化されてないでしょう?これを出そうっていう気概のある出版社ないかしらね、新潮社さん!
小林 あの時代の寄生虫研究室からは二世代ほど経っていますが、医学部内で大きな編成を経て看板を変えたところもあります。でも、今でも寄生虫に携わる研究者は熱い人が多く、拙著を読んで下さる方も少なくない。だから学会などで現在、現場に居られる研究者にお目にかかると、僕が日本のフィラリアの根絶対策の土台を作った佐々学先生はじめ寄生虫学のレジェンドの先生方に多く会っていたことで、どんな人だったか、どんな話をしたのか、とたずねられたりします。人によっては僕のことを佐々先生の弟子の一人と見てくださっていて、本当にありがたいと思います。
編集部 昨今、寄生虫ブームというのが続いていて、その関係の本は割と売れるんです。目黒寄生虫館もかなり人が入っているそうですし。
小林 90年代半ばに大ベストセラーになった『笑うカイチュウ』の著者の藤田紘一郎先生にもずいぶん取材させてもらいました。
東 私が初めて小林さんにインタビューしたのは『朱鷺の遺言』のときだったけど、あの日本産最後のトキ「キン」を見守った佐渡の方々が小林さんをとても可愛がっていたでしょう?
小林 今でも息子さんや娘さんとつながりがありますよ。御縁は繋がっています。1999年4月に『朱鷺の遺言』が大宅賞の受賞作品に決まったときは、皆さん、本当に喜んで下さいました。
仲野 新潮社さんの書籍PR誌『波』で『死の貝』書評を頼まれたとき、いろいろ経緯はあるにせよ、こんなに難しい本が売れるんかいな?と疑問に思ったんですが、いや、日本人は勉強したい人がまだまだいるんだ、捨てたもんじゃなないって思いましたね。だから、他の本もきっと読んでくれる人は多いと思いますよ。この本、書きあがるまでどれくらいかかってるんですか?
小林 日本住血吸虫症について書こうと思ってから資料集めをして、取材して、書きあがるまでは2年くらいかかっていますか。同時期、新潮社さんからの『床山と横綱 支度部屋での大相撲五十年』や『闘牛の島』、中央公論社(現・中央公論新社)さんからの『神を描いた男・田中一村』なども並行してやっていました。
東 私ね、この本を一般に読めるようにしてほしいなあ。『進化と深化 能美防災100年のあゆみ』(文藝春秋企画出版部 2015年)。古書でみつけたんですが、防災に特化した会社の私家版の社史なんですけど、大正時代から火災の防災装置を工夫していたってすごいですよね。面白かったんだけどなあ。
小林 文藝春秋企画出版部で、エレベーターの保守管理、空調設備をはじめとしたビルメンテナンス大手の三菱ビルテクノサービス株式会社の60年社史もお手伝いさせて頂きましたが、インフラ系の会社の歴史を調べると、科学技術の歴史そのものを体感できて、勉強になりました。私たちの暮らしを支えている当たり前の技術には、日本初、世界初のものも少なくなかったのだなあ、それは今も続いているのだなあ、と。それにしても、能美防災の社史も東さんがお読みになられていたとはびっくり、です。恐れ入りました。
仲野 小林さん、次に何を書きはるんですか?医学系でなんか調べてますか?医学関係の素養があって、興味をもっていることが何か気になります。
小林 2016年に中央公論新社さんから刊行させて頂いた日本におけるツツガムシ病の歴史を描いた『死の虫 ツツガムシ病との闘い』を今年の秋、中公文庫で刊行させて頂く予定です。
つきましては、仲野先生にこの文庫の解説を是非、お願いしたいと思います。ツツガムシ病の病原体を追い求める日本人医学者の研究では、仲野先生のご著書『なかのとおるの生命科学者の伝記を読む』(『生命科学者たちのむこうみずな日常と華麗なる研究』と改題され文庫化)で紹介された医学者が何人も登場しますので。
仲野 喜んでお引き受けいたします。
小林 ご快諾を賜り、ありがとうございます。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。東さんには刊行後、書評を是非、お願い申し上げます。
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コロナの流行初期に読むべき本として私が挙げた本。
この本から11年後に本当にパンデミックが来るなんて、読んだときには思いもしなかったなあ。