2024年1月号より『本の雑誌』新刊めったくたガイド「ノンフィクション」の連載を始めました。編集部の承諾を受け、本誌がネット公開されたのちHONZにアップできることになりました。ご期待ください。
なんと16年ぶりにこのコーナーを担当させてもらうことになった。北上さんのいない本の雑誌にまだ違和感があるけれど、全力で面白いノンフィクションを紹介していくつもりだ。よろしくお願いします。
現在、巷のノンフィクション本で流行っているのは、ウォルター・アイザックソン『イーロン・マスク』(井口耕二訳/文藝春秋)と黒柳徹子『続 窓ぎわのトットちゃん』(講談社)だ。どちらも多くの媒体で紹介され、ベストセラーとなっている。
かたや世界一の富豪にして電気自動車のテスラやら宇宙開発など人類の未来さえ変えてしまいそうな男の半生が面白くないわけがない。900ページ以上を読み終えても底が知れないのだ。面白さは保証する。下手に言葉を弄するより読んでもらった方がいい。
もう一方の国民的ベストセラーの続編は42年ぶりの新刊。この後に続くテレビ業界黎明期は『トットチャンネル』(新潮文庫)で紹介済みなのだが、子どもから思春期の出来事が欠落していたのには訳がある。戦争中だったのだ。その辛さや哀しさを思い出すことが苦しかったのだろう。だがこの本によって黒柳さんの前半生自伝は完結した。
市井に生きる人の人生だって負けてない。いや、とびっきり面白い本を発見した。
山分ネルソン『逆転力、激らせろ│希望を咲かせて│』(文・蒼井カナ/IAP出版)の惹句には〈日本人が知らない「ジャパニーズ・ドリーム」を掴む方法。〉とある。
大阪十三に乳腺外科と産婦人科を併設した「希咲クリニック」がある。院長である著者は帰化して日本人だが、出身はマレーシアだ。
本書は彼のサクセスストーリーなのだが、その前にひとつ女性なら誰もがこの病院を歓迎する理由がある。
それは総合病院でもない限り、健康診断で乳がんと子宮がんを同時に診てくれるクリニックが極めて少ない、ということだ。女性特有の病気なのに別の病院に行くのは極めて面倒くさい、と誰もが思っているだろう。この一点においても、実現させた山分医師は偉い。
いま”医師”と紹介したが、生まれはマレーシアのイポーという片田舎で極貧であったという。家族で移動式屋台を牽いて自家製のお菓子を売り歩く生活は、病気にかかっても医師に診てもらう余裕がないほど貧しかった。
そのことにコンプレックスをもつ少年は、なぜか化学の成績だけが抜群によかった。勉強すれば世界が拓ける。憧れの日本に向かったのは1992年、18 歳の春のことだ。
先に来日していた兄の狭いアパートに仮住まいし、バイトをしながら日本語を学び、北海道大学薬学部、その後大阪大学医学部に入学する。目指したのは産婦人科医。初当直での衝撃的な事件は、彼が天から産婦人科医として求められたのだと思う。
日本の医療を根本から変えようと選挙に出馬したり、大阪らしくすごいタニマチに会ったりと、ページをめくる手が止まらない。世の中を変えるのは”よそ者””若者””馬鹿者”。日本の医療を改革してくれそうだ。
この3年あまりの新型コロナ禍を振り返ると、つい最近のことなのに本当にあったことなんだろうか?と感じることがある。
だがこの人にとって長く苦しい日々だったに違いない。
尾身茂『1100日間の葛藤新型コロナ・パンデミック、専門家たちの記録』(日経BP)は、日本の専門家の司令塔として常に最前線に立ち、マスコミへの顔となった著者が、政府との交渉や専門家内の軋轢、自らの思いを綴った記録である。
既に専門家らの記録としてはコロナ発生初年に西浦博・川端 裕人『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』(中央公論新社)や河合香織『分水嶺 ドキュメント コロナ対策専門家会議』(岩波書店)があるが、本書は終息したとされている2023年7月まで詳細に追っている。
順に読んでいくと、わずか3年半前のことが記憶の彼方であることに驚かされるだろう。あまりにも非現実的でSFの世界に迷い込んだような緊急事態の中を生き残ってきたんだ、と震えがきてしまう。
ウイルスという見えない敵から身を守るため、頼れるのは専門家だけだった。政府でさえ初期はおんぶにだっこで、指針を出すにも専門家を頼った。
だが国を動かし民を守るのは政府であり、地方自治だ。科学者たちが重きを置くものと、人々を生かす方策とは逆になっても仕方がない。なのに責任を問うとして、尾身や他のメンバーに殺人予告があったと聞くと、日本の科学リテラシーの低さに呆れてしまう。
本書を理解するために7月に上梓された牧原出・坂上博『きしむ政治と科学』(中央公論新社)がある。専門家が政府と別に独自の見解を出したことを「前のめり」と評価した(個人的にはこの言葉に良い印象を持たないが)政治学者の牧原と尾身の対談を一読してほしい。
身近な人の生涯を俯瞰することで自分の将来を見据えることもできるだろう。
村井理子『実母と義母』(集英社)は翻訳家で双子の母である著者が、癌で亡くした実母と認知症の介護中である義母を比較し分析した一冊だ。
著者の実家も婚家も少し変わった家庭であったことは否めない。父は早くに亡くなり、粗暴な兄を持て余しつつ溺愛した実母。自ら完璧な女性を目指し嫁にも求める義母。そして飛び切り強情な著者。この三つ巴が年齢を重ねるうちに角が取れていく。次は自分が年老いる番だ。私も義母の気持ちがわかるような年になったのだなと感慨深い。