みなさんは、仁科芳雄という人物をご存知だろうか? 物理学をある程度学んだ者なら必ず知っているし、物理学でなくても、理系の研究者なら、ほぼ間違いなく知っているだろう。わたしも一応は知っていた。「仁科記念賞」という、原子物理学とその応用に関する栄誉ある賞があるし、教科書には「クライン=仁科の式」というものが載っている。仁科は理研(理化学研究所)の人であることや、サイクロトロンを作ったことや、第二次世界大戦中はいわゆる「ニ号研究」をやっていたこと、そして戦後は学術会議の創設に関わったことなども知っていた。(恥ずかしながら本書を読んではじめて知ったのだが、いわゆる原爆研究とされる「ニ号研究」というプロジェクト名は、「2」号研究ではなく、仁科から取ったカタカナの「ニ」号なのだそうだ! わたしはそんなことも知らなかった!)
というわけで、わたしとしても仁科のことを多少は知っていた、と言えなくもない。だが、「じゃあ、仁科芳雄の何がそんなに偉いのか」ということになると、正直、よくわからなかった。湯川や朝永の仕事のどこがどうすごいのかと問われれば、自分なりに言えることはある。しかし、仁科の仕事のどこがどうすごいのかと問われたら、口ごもるしかなかったのだ。「それでいいのか、自分!」と、かねてから少しばかり気になっていので、このたび仁科芳雄の充実した伝記が出たらしいと聞き、せっかくだからこの際読んでみようかな、ぐらいの軽い気持ちで手を出した。
ところが、「序」を読みはじめるやいなや、わたしは居住まいを正した。これはたいへんなことになった。本書は、単に「仁科芳雄」の「伝記」などというものではなさそうだ。著者である科学史の伊藤憲二氏によると、そもそも科学史の分野では、昔の「偉人伝」(立身出世とか、刻苦勉励とか、故郷のおっかさんとか?)への反省や批判から、伝記というジャンルは長らく忌避されてきたのだという。伊藤氏が本書でやろうとしているのは、そういう昔の伝記の弱点や限界を乗り越える、「科学史的伝記」というジャンルを開拓することらしいのだ。
伊藤氏の「科学史的伝記」がどういったものかを象徴的に表しているのが、『励起』というタイトルだ。「励起」というと、普通は、原子内の電子が、基底状態と呼ばれる一番低いエネルギー準位から、(外部から飛び込んで来たエネルギーを受け取って)より高いエネルギー準位にジャンプすることを指す。しかし本書のタイトルになっている「励起」は、それとはちょっと違う。これは「原子内電子」ではなく「場の理論」のほうの話で、場のエネルギーが高まったことで、場の粒子が飛び出してくるイメージだ。たとえば、スイスのCERNでヒッグス場にエネルギーを与えてヒッグス粒子を飛び出させて検出したが、そのヒッグス粒子はヒッグズ場の励起というわけだ。日本の現代物理学という「場」のエネルギーが高まり、仁科(だけではない)が、場の粒子のように飛び出してくる。
伝記というのは、定義からして個人を描くものだろう。そして従来、とくに日本の伝記では、その個人の「思想」(何を考えていたか、何を志したか)に、あまりにも重きを置きすぎていた、と伊藤氏は言う。人とその環境とは、切り離せるものではないし、何を考えているかは、実は当人にもわかっていなかったりするものだ、と。
実のところ個人とその外界との境界はそれほど明確なものではない。そのことはまさに仁科が傾倒したN・ボーア(Niels Bohr)の思想が問題にしたことでもある。ボーアは盲人にとって杖が身体の一部として外界を認識するのか、それともそれ自体が身体の外の物体であるのか、境界が定かではないことを指摘する。このような発想は、現代の科学哲学にも受け継がれており、……中略……
仁科の活動もまた、多くの弟子や共同研究者、理研などの組織、そして宇宙線、サイクロトロン、ラジオアイソトープといった自然現象や人工物が絡み合ってなされていた。そこにおいて、仁科個人と、その外部とバッサリと切り分けてしまうことは、かえって実態から乖離するのである。仁科の言うように。環境と人は相互に創りあうが、はっきりと分かれた二つのものが相互作用するのではなく、両者はむしろ不可分に絡み合う。……中略……
このような環境と人の関係は。仁科自身もその研究に深く関わった物理学における場の理論とのアナロジーから考えるわかりやすいかもしれない。粒子は真空の一励起状態であるように、人間や他の生物・無生物個体も、環境の一部を構成するあぶくのようなものと考えるのである。
「第一章 里庄の仁科家」を読み始めて、これはたいへんなことになったと、ますます唖然とした。なにしろ、岡山県浅口郡里庄町浜中という、仁科芳雄が生まれることになる土地の歴史や地形的な成り立ち、その土地の産業にはじまり、親戚のおじさんおばさん、本家分家、その他、登場人物たけでもすごい数に及ぶ歴史の細部が描かれていくのだ。
しかし、どれだけ強調しても強調しすぎることはないと思うのだが、唖然とするほど細かい話が展開するにもかからず、少しも瑣末な感じがしないのである。著者が好き勝手に脱線して余計な細道に入り込んでいるのに読者が付き合わされている、という感じはまったくしない。そんな感じがしないのは、著者の気迫ゆえなのだろうか? いや気迫だけではない。うまく説明できないけれど、「場」を描き出すことになるパズルのピースがひとつひとつ、的確に置かれていく感じとでも言おうか。著者の確かな手つきが感じられるのだ。
実際、本書を読んだ人の多くは、(これまで見聞きしたところでは)「読みやすい」と感じるらしい。わたしも例外ではなく、本書の読みやすさには、ちょっと不思議な気がするほどだ。その理由はさまざまありそうだが、わたしにとって読みやすさの一因は、主人公である仁科への感情移入を求められないことだと思う。子どもの頃に読んだ科学者の伝記は、共感したり、感動したり、尊敬させることを目的としている感じがしたものだが、そういう感じはまったくない。むしろ、著者の伊藤氏は、仁科とその環境を(それもグローバルな視野で)俯瞰的に描き出しており、ときに仁科を突き放しているような印象さえ受けるほどだ。
たとえば、仁科は、1920年代の大半をコペンハーゲンのボーアの下で過ごして帰国する。
(なお、1920年代をコペンハーゲンで過ごしたと聞けば、量子論/量子力学の歴史を多少とも知る者なら、「あっ!」と思うだろう。そう、仁科は、現代物理学の革命のひとつの中心地にいたのだ。ボーアとハイゼンベルクの、相補性と不確定性をめぐる激論の日も、仁科はボーアの研究所にいた。そして仁科は、ハイゼンベルクにはちょっと批判的で、ボーアの相補性に心酔した。)
1928年12月、仁科は十年近い在外研究を一段落させてついに帰国する。当時の日本は世界の最先端のレベルについていける状況とは言い難く、仁科は、できればまた外国で研究したいと思っていたようだ。だが、帰国後、「仁科芳雄君、帰国歓迎会」とか「帰国報告会」みたいな行事が延々と続く。義理堅い仁科は、外遊中に金銭的にも世話になった親戚や物理学関係者に礼を失するようなことはできなかったのだろう。筆まめな彼が、ボーアをはじめ外国の物理学者たちに手紙を書くひまもないような日々が続いたようだ。挙句に、「おまえもそろそろ身を固めろ」的な世話を焼かれ、所帯まで持たされてしまう。なんと、帰国後まもない翌年二月には、結婚する羽目になった。このあたりは、仁科のプライベートな面では一大事だったはずだが(円満な家庭というわけにはいかなかったようだ)、著者の伊藤氏はあっさりと省略する。
歴史研究者を名乗る者の中には歴史上の人物についての週刊誌的なゴシップや誇張したスキャンダルを作り上げて読者の興味を引く者もいるが、筆者はそれをするつもりはない。本書の主題はあくまで仁科の学術活動であり、必要以上には彼の私生活には踏み込まない。先に挙げたボーア宛の書簡も、通常、図書館において取扱注意の必要な個人的なものとして扱われるべきものであり、関係者によってすでに出版されていなければ、本書でも取り上げることに躊躇しただろう。しかし仁科の結婚問題は帰国後の仁科の状況をよく表している。ここで仁科は与えられた環境に一種の諦念を持って順応し、その中で最大限の努力をしようとした。このような態度は、仁科の個人生活だけでなく、学術活動においても繰り返し現れることになる。
「ゴシップ」をめぐる伊藤氏のスタンスについては、わたしもいろいろ考えずにはいられない。たとえば、これまでアインシュタインの伝記は山ほど出ているが、「アインシュタインは偉大な物理学者で超有名人である」という前提のもとに、物理学的なことはすべて省略して、アインシュタインという有名人のプライベートな側面(伊藤氏にしたがえばゴシップ?)にフォーカスした「伝記」もたくさんある。そういう伝記に意味がないとは言えない(需要があるから出るわけだし、社会的な現象としては興味深いことも多い)。しかし、科学史的観点からは、ほぼ意味はないと言わなければならない。
そして、これもまたどれだけ強調しても強調しすぎることはないと思うのだが、伊藤氏の筆致はクールで突き放したようなところがあるし、ゴシップ的なネタは省略されているにもかかわらず、けっして無味乾燥ではないということだ。
たとえば1938年秋、ライプツィヒのハイゼンベルクのところに留学していた朝永親一郎は周囲の環境に馴染めず、ひどく落ち込んでいた。思い余った朝永は仁科に弱音を吐くような手紙を書き、それに対して仁科が書いた返信が、全文引用されているのである(これまでこの仁科の手紙は、朝永が自著で部分的に引用したところが知られていただけだったが、最近、手紙の全文の写しが発見されたそうだ)。その仁科の手紙は胸を打つもので(ここには引用しないが)、朝永はそれを読んで泣き、その後も思い出しては泣いたという。わたしも、ついもらい泣きしそうになった。
しかしその手紙は、単に「仁科が愛弟子朝永を思いやる優しい手紙」というだけではない。わたしがドキッとしたのは、仁科が、「湯川君ノ方デモβ線ハ未ダ解決出来ナイヤウデスガ他ノ問題ハ皆量子論の根本難点ナルdivergenceニブツカッテ居ルヤウデス。コレカラ先ハ一飛躍ヲ要スルノデハナイカト思ヒマス」と書いたくだりだ。このdivergence(発散)の問題こそは、朝永のノーベル賞の仕事につながる問題なのである。もちろん、朝永としても、仁科に言われるまでこの大問題に気づいていなかったわけではない。それでもわたしは、この仁科の手紙を読みながら、理論と実験の両方で(仁科は実験家としてコペンハーゲンに行き、理論家としてコペンハーゲンから戻ったのだった)、研究能力と指導能力の両方に秀でた仁科の人柄、そしてその存在の大きさを感じたのである。
わたしももらい泣きしそうになったこの手紙は、ほんの一例にすぎない。『励起』は無味乾燥どころか、物理学の面と人間的な面の両方で、心を揺さぶられたり、涙を誘われたり、ギョッとしたり、ハッとしたり、ドキッとしたりする記述が満載なのである。
おそらく本書の読みどころのひとつは、グローバルに描き出される第二次世界大戦中、および戦後の状況だろう。しかしそこを書きはじめるとあまりにも話が長くなってしまうので残念ながらすべて省略する(重要なところなので、ぜひ読んでほしい!)。徹底した資料研究にもとづく説得力ある記述なので、今後、その時期の物理学や政治やその他諸々について語ろうと思う人には、必読の文献となるだろう。
本書は、二十世紀の日本の物理学(だけでなく化学も生物学もだが)にとって、理化学研究所という組織が果たした役割を知るためにも、非常に有益だと思う。明治期に帝国大学がボツボツ創設されていったが、当時の国立大学(帝大)に、科学研究ができるようなインフラはなかった。なにしろ「研究費」という概念すらなく、学生数に応じて「実験費」が割り振られるだけだったのだ。そんななか、財団法人で研究費が比較的潤沢な理研は、唯一、日本において金のかかるプロジェクトを立ち上げることができた場所と言っても過言ではないだろう(「研究者の楽園」という言葉もある)。
しかし、第二次世界大戦後、その理研が存亡の危機に立たされる。仁科は、理研という組織をなんとか存続させようと、ペニシリンの製造に賭けた。しかし、やはりというべきか、それも一筋縄ではいかなかった。当時、仁科とともにペニシリンの製造に取り組んだ大山義年という人物の、つぎの記述を引用したい。
仁科先生は事に当たってはひたむきであり、感じとしていうと、牛が頭を下げてギューッとつので岩でも押していくような感じの方なんですね。”先生、そんなことをなさっては損ですよ”といっても、”損でもいい”というんだ。
ここに至るまで上下二段組で九百ページ以上も、仁科の苦労につぐ苦労につぐ苦労の道のりを読んできたわたしは、この大山氏の言葉に胸がつまり、涙ぐんだ。
そして筆者の伊藤氏は、エピローグにあたる「第二八章 遺産」をこう書き起こす。
仁科芳雄が亡くなったとき、彼を取り巻く状況は決して満足すべきものではなかった。サイクロトロンは破壊され、再建の目処は立っていない。戦後、守ろうとした理研は科研となり、その財務状況は楽観を許さないかったし、実際に、その後破綻に向かっていき、改組を余儀なくされた。これまで描いてきたように、仁科の生涯は決して成功者のものではなく、膨大な努力にもかかわらず、生きている間にはその成果が実ったものは驚くほど少ない。困難と、障害と、挫折と、破綻が大部分の人生だった。 ……中略……
しかし仁科の遺産は、生前に成し遂げた事跡よりもはるかに大きなものだった。それは部分的には、湯川のノーベル賞受賞として生前に現れていたし、朝永や坂田らの研究も世界的なものであることは明らかだっただろう。前章に述べたように。国際理論物理学会議の日本における開催や、理研における小サイクロトロンの再建も、その初期の表れだった。
本書の冒頭で示唆したように、仁科の重要性は、生前に仁科が成し遂げたことよりも、仁科をきっかけにしてその周囲に起こったことであり、その大きな帰結は、むしろその死後に起こった。……後略……
仁科の人生は、困難と障害と挫折と破綻の連続だった。しかし仁科の重要性は、むしろその後の周囲のなりゆきに現れる。本書を読み終えた今も、わたしは「仁科芳雄の何がそんなに偉いのか」を、ひとことで言うことはできない。しかし、ひとことでは言えない仁科の重要性については、わたしなりに全力で受け止めたつもりだ。
圧倒的な筆力で描き出される「仁科芳雄と日本の現代物理学」(本書の副題)だが、読み終わって思うのは、歴史に対するこのアプローチの威力は、物理学という分野だけに限定されるはずがない、ということだ。「われわれは歴史をどう知るのか」という問題を考える人には、ぜひ本書を読んでほしいと思う。たしかに、本書のテーマは物理学者とその環境だから、物理学の話は出てくる。しかし、数式はひとつも出てこないし、サイクロトロンだろうがなんだろうが、理解する必要があることは理解できるように書いてある。物理学への心理障壁さえなければ(笑)、読めるはずだ。むしろ、もしもこれが読めないというなら、どの分野の歴史にもアプローチできないのでは? とさえ思うほどだ。ぜひとも多くの人に、”『励起』経験”をしてほしいと思う。