「これほど読む前から面白いに決まっている本はそうそうないはずだ」
米国の腫瘍内科医であるシッダールタ・ムカジーによるピュリッツァー賞受賞作『病の皇帝「がん」に挑む─人類4000年の苦闘』が『がん─4000年の歴史─』として文庫化された時、次作『遺伝子─親密なる人類史─』への期待をこめて解説の最後に書いた文である。この本の原著 『The Song of the Cell: An Exploration of Medicine and the New Human』が出版されたと耳にした時もまったく同じことを思った。その邦訳である本書『細胞─生命と医療の本質を探る─』は、予想を上回面白さだった。
古代エジプトにおけるがん病変の記載から分子標的療法の開発まで、その歴史をあますことなく伝えた『がん』、アリストテレスから説き起こし、ダーウィンとメンデルの偉大な発見から現在にいたる研究の進展、そして未来の倫理的問題までを論じた『遺伝子』。これら二冊を読んだ人ならば、ムカジーを当代随一の医学ノンフィクションライターと呼ぶことに異論はあるまい。そのムカジーが、が、遺伝子に次いで取り組んだテーマが細胞である。
生命の定義とはなにかをご存じだろうか。基本的には、「代謝する」、「外界と膜で隔てられている」、「自己複製する」、の三つに要約できる。これは取りも直さず、細胞の性質そのものでもある。だから、ムカジーが繰り返し述べるように、細胞は生命の基本単位なのだ。それと同時に、生命そのものであるということもできる。冒頭の「前奏曲」にこうある。
「本書は細胞の物語である。ヒトを含むあらゆる生物がこれらの『初歩的な粒子』で成り立つという発見をめぐる年代記である」
しかし、その年代記の内容は単に細胞だけに留まらない。細胞が集合して作る機能的単位である組織や器官、そして、それらの協調。さらには、疾患は細胞の機能異常により引き起こされるという細胞病理学の考えから細胞操作を用いた治療法まで「生物学と医学の革命について」の本である。
え、大丈夫なのか? 冒頭で明かされた本の内容を知った時、失礼ながらそう思ってしまった。がんや遺伝子に比べ、細胞というテーマは広大すぎる。がん研究と遺伝子研究はエポックメイキングな研究が際立っているので、ムカジーほどにうまく書けなくとも、誰が書いても同じようなあらすじになる。いわば一本道なのだ。それに対し、細胞研究の年代記はあまりに多岐にわたるため、一筋縄ではまとめられそうにない。
だが、それは杞憂だった。この本の目的は、細胞のすべてを、そしてその歴史を網羅的に紹介することではない。「空隙や欠落が避けがたく生じてしまう」ことをものともせず、「細胞という概念や細胞生理学についての知識が医学や科学、生物学、社会構造、文化をいかに変えたかを物語る」ムカジーによる通史である。だから、前の二作よりも著者の考えが色濃く表されており、その目論見は大当たりだ。
膨大な人数の研究者が登場する。ほとんどは生物学を学んだ人なら一度はその名前を聞いたことがある人たちだが、中には歴史に埋もれてしまった研究者もいる。そんな中、ムカジーが最大限の敬意を表すルドルフ・ウィルヒョウは知る人ぞ知るといったレベルだろうか。若くして旧来の説に異を唱え、細胞病理学という概念を確立し、細胞という単位が生理的のみでなく病理的にもいかに重要であるかを喝破した、一九世紀のプロシアに生きた医師である。そのような探求者たちと並んで、何人もの患者が登場する。トップに紹介されるのは、CAR-Tという新しいがんの免疫療法が奏功したエミリー・ホワイトヘッドと、同じ治療を受けながら残念にも亡くなってしまったムカジーの友人サム・Pである。
エミリーとサムは、ムカジーに言わせると、人為的な遺伝子操作が施されたCAR-T細胞を受け入れた「ニューヒューマン、新しい人間」だ。執筆を始めた時はウィルヒョウに捧げるつもりであったが、最終的に本書は「細胞病理学を細胞治療へと転換するという初期の試みを経験した最初の患者たち」であるエミリーとサム、そして「彼らの細胞」に捧げられている。
「細胞生物学が新たな医療として生まれ変わるのを目のあたりにしながら、私はやはり計り知れないほどの高揚感を覚えている」
というのが最大の理由だろう。ムカジーが語る細胞の物語は、読者にも同じような感動を与えてくれる。以下、その内容を簡単に紹介していこう。
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第一部「発見」は、17世紀オランダのアントニ・ファン・レーウェンフックおよび英国のロバート・フックによる顕微鏡を用いた細胞の観察から始まる。フックはコルクを検鏡することにより、「小部屋」を意味するラテン語cellaからcell(細胞)と名付けた。これは細胞そのものではなくて、コルクの細胞壁の輪郭からの命名なので誤りだったのだが、その語はいまも生き続けている。
その後しばらくの間は進展がなかったが、一九世紀にはいって、天才たちが道を切り拓き始める。ウィルヒョウが細胞病理学を確立し、ロベルト・コッホとルイ・パスツールという独仏の好敵手が、細菌──もちろんこれも細胞だ──が病気の原因になりうることを証明した。それに先だって、独学の生物学者フランソワ゠ヴァンサン・ラスパイユ─パリで最も長い通りのひとつに名を残しているとはいえ、ほとんど無名だ─が、自らの思考により「すべての細胞は細胞から生じる」という卓見を抱いたというのは驚異としか言いようがない。
「ひとつと多数」と名付けられた第二部では、細胞の構造から分裂、減数分裂と受精、そして多細胞生物の発生へと話は進められる。ここで詳しく紹介されるエピソードはどれも刺激的だ。まずは、後にいずれもノーベル賞に輝く、細胞分裂におけるサイクリンとCDK発見の物語と体外受精開発の物語である。「体外受精は何を隠そう、細胞治療である」という言葉には少なからず驚いた。細胞治療の定義にもよるが、言われてみればまさしくそのとおり。すでに1000万人ほどの子どもが体外受精で生まれているのだから、驚異的に普及した細胞療法なのである。このような発想の伸びやかさがムカジーの真骨頂だ。
第三部「血液」はムカジーが専門とする分野だけに、語りの疾走感に拍車がかかる。「休まない細胞─循環する血液」では、ウィリアム・ハーヴェイの血液循環説からカール・ラントシュタイナーによる血液型の発見、そして輸血の発明へといたる物語が躍動感たっぷりに描かれている。以後、血小板の役割、自然免疫、抗体の発見とそれを用いた治療、免疫の司令塔ともいえるT細胞の研究とエイズ、がんの免疫療法の物語へと一気呵成に進められる。それぞれの研究の物語、すべてが大興奮の短篇冒険小説のようだ。
なるほど、このように説明すればいいのか、と溜め息をつきたくなるところがいくつもあった。その最たるものは、かつて免疫学最大の謎と言われた自己と非自己の認識メカニズムである。「構造と機能が一致する」という「生物学の最も美しい概念」の見事すぎる例が、図を使うこともなくわかりやすく説明できるとは、まるでマジックを見せつけられたような気さえした。
誉めてばかりいるようだが、気に入らないところもあった。ひとつは抗体の発見という大業績がエミール・フォン・ベーリングのものとされているところだ。ノーベル賞を受賞したのは確かにベーリングなのだが、実際のオリジナリティーは完全に北里柴三郎の破傷風抗毒素研究にある。もうひとつは、制御性T細胞という重要な細胞について、その発見者・坂口志文先生の名が記されていないこと。その研究は独力でなされた特筆に値するものだけに残念だ。
「知識」と題された第四部は、新型コロナウイルスをテーマにした内容である。他の部に比して短いのだが、パンデミックを経験した今、細胞について「私たちは多くを学んできた。しかし、学ぶべきことはまだあまりに多く残されている」という警句には誰もがうなずかざるをえまい。
第五部「器官」では、心臓、脳、ホルモンによるホメオスタシス(恒常性)の維持、そして複数の臓器の連関について。第六部「再生」では、造血幹細胞や、胚性幹細胞、iPS細胞の話から、自らの研究テーマである骨格筋幹細胞の話、さらに、「内部のホメオスタシスの故障」としてとらえたがんの話へと進む。そして最後は、ウィルヒョウの考えを土台にした10項目の「細胞生物学の教義」が示され、偉大なる知の巨人へのオマージュで締めくくられる。
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日本語の「細胞」という言葉はどのようにしてつけられたのだろう。現在の岡山県北東部にあった津山藩の藩医、蘭学者であった宇田川榕菴(うだがわようあん)がオランダ語の「cel」につけた訳語らしい。「胞」は元々「えな」、すなわち胎児を覆う膜で、「細」は小さいを意味する。だから、イメージとしては、生命を覆う小さな袋といったところだろう。なかなかセンスがいい。cellなどという誤ってつけられた言葉よりもはるかに優れているではないか。
「生命の粒子」たる細胞の研究は、顕微鏡による観察に始まり、生化学や分子生物学の威力を用いた解析の時代を経て、操作による「ニューヒューマン」を誕生させうる段階に達している。いろいろな病気の治療に大きな期待が持たれているが、本書のあちこちで書かれているように倫理的な問題を克服していく必要がある。倫理というと普遍的なものと考えがちだが、ムカジーも論じているように、時代と共に、あるいは、新たな発見によって移ろいゆくものだ。これこそが、先にも述べた「細胞という概念や細胞生理学についての知識が医学や科学、生物学、社会構造、文化をいかに変えたかを物語る」ということの証左である。
さて、細胞の年代記はこれからどのようなあゆみを見せていくのだろう。あのウィルヒョウでさえ、ゲノム編集による細胞操作の時代がやってくるなどとは夢にも思わなかったはずだ。そう考えると、凡人がいくら想像しても無駄なのかもしれない。しかし、ウィルヒョウは一歳年下のメンデルが遺伝の法則を発表したことすら知らなかったが、我々の状況はまったく違う。細胞についてすでに膨大な知識、さらに、いくつかの操作法さえ手に入れているのだから。
この本を読んで、細胞操作やニューヒューマンの将来について、細胞がこれからどのような活躍を見せてくれるのだろうかと空想の翼を思いっきり広げてみてほしい。それは、我々を構成する生命の基本単位を通じて、生命とはなにかを問い直すことになるはずだ。