キツネの家畜化実験、ナショナルジオグラフィックなどで紹介されたりしているので、その驚くべき成果の概要をご存じの方も多いだろう。かくいう私も人並みならぬ興味を持ってこの壮大な研究を見つめてきたのだが、その裏で、研究成果にも劣らぬ人間ドラマがあったとはまったく知らなかった。主人公はふたり。ひとりはキツネの家畜化実験を考案し、1952年に始動し1985年に亡くなるまで従事し続けた遺伝学者ドミトリー・ベリャーエフ。もうひとりは、1958年から実際の飼育実験にたずさわった女性研究者リュドミラ・トルート―本書の共著者でもある―だ。
うまくいく確証などまったくなかった、というよりは、無謀ともいえる研究だった。一般的に、動物の家畜化は長い年月をかけて少しずつ進むものだと考えられている。また、家畜化された生物種の数は、イヌ、ヒツジ、ウマ、ブタなど決して多くはない。ウマの近縁種であるシマウマが家畜化できなかったことからわかるように、イヌと近縁とはいえ、キツネが家畜化できる保証はどこにもなかった。しかし、結果は大成功をおさめた。
家畜化のための条件はたったひとつ、人になつくかどうかだ。ただそれだけを指標にして交配が繰り返された。最初はあまり攻撃的ではないとかいう程度だった。しかし、交配が進むにつれて、どんどん人になつくようになっていった。そして、驚いたことに、耳が垂れる、白いまだら模様ができるなど、家畜化された動物に共通する特徴が出だしたのだ。ベリャーエフとトルートが大興奮したのもうなずける。まさかこんなことまでおこるとは予想していなかった。
すこし専門的になるが、このふたつの特徴、垂れた耳と白いまだらは、意外なことに共通の変化で説明できる。発生段階で一過的に出現する神経堤細胞という細胞がある。この細胞は移動性があり、最終的には骨・軟骨細胞、色素細胞、神経細胞などに分化する。家畜化が進むにつれて、何らかの要因により神経堤細胞が減少する、それが、垂れ耳や白いまだらの原因であると考えられるのだ。
研究が開始されたころに話を戻そう。当時のソ連はスターリンの支配下にあり、遺伝学はソ連独自の「遺伝学」、トロフィム・ルイセンコという科学者の簑をまとったペテン師に牛耳られていた。ルイセンコの「学説」は、西側の遺伝学、というより正しい遺伝学、の完全なる否定であり、獲得形質が遺伝するというものであった。愚かすぎて呆れるしかないが、イデオロギーがサイエンスに介入した最悪のケースだ。そのような状況で、遺伝育種研究をおこなうというのは、大げさでなく文字通り命がけのことであった。
細々と始められた研究であったが、1953年にスターリンが死に、風向きが変わり始める。1957年、ベリャーエフは、アカデムゴロドク、新しく建設された「学術都市」の科学研究センターの一角に作られた細胞学遺伝学研究所で進化遺伝学の研究室を主宰することになった。そこへ大学を優秀な成績で卒業したばかりのトルートがリクルートされたのだ。って書いたら下手な語呂合わせみたいやけど。
実際の実験場は、研究所から南東に360キロメートル南東に位置する巨大な商業用キツネ飼育場に設置された。そこでの研究は1960年に開始される。と書くとなんでもないようだが、極寒のシベリアだ。トルートは、冬には気温が氷点下四十度から五十度になる土地の暖房のない小屋で何時間も作業しなければならなかった。それも、夫と娘と離ればなれで。キツネの家畜化は、このような過酷な環境でおこなわれた研究だったのだ。
数多くの困難に見舞われたりもしたが、研究は着実に進んだ。といっても、キツネは年に一回しか出産しないので、年単位での進捗である。人になつくという性質は着実に強くなっていったが、驚異の形質、垂れ耳と白いまだらが現れたのは第十世代、1969年のことだった。家畜化実験は次第に有名になり、70年代になるとベリャーエフは西側の学会に招へいされ、1978年には国際遺伝学連合の総裁まで努めたが、1985年に死亡する。真の困難はその後に訪れた。それは1991年におきたソビエト連邦の崩壊だ。
職員に給料を払うことができなくなった。それでも残ってくれる人がいた。しかし、いよいよ飼育場の運営費がゼロになってしまった。それでもなんとか凌いでいたが、冬になり、キツネが餓死し始めた。貴重なデータそのものであるキツネたちが。1999年には従順な雌ギツネ百匹と従順な雄ギツネ三十匹にまで減ってしまった。だが、そこへ救いの手が差し伸べられる。
その後、研究は進み、2018年には、家畜化されたキツネのゲノム解析から、家畜化には103ヶ所の遺伝子領域が関与していることが報告されている。トルートも最後から二人目の著者になっているその論文のアブストラクトは「キツネは、犬や他の哺乳動物、さらには人間の行動の遺伝学的研究に有益な、親和性と攻撃性の遺伝子解析の強力なモデルを提供する」と結ばれている。これはベリャーエフが生前に考えていたことでもある。
基本的に、われわれは家畜化された、正確に言えば自己家畜化された霊長類なのだ。われわれはそのプロセスを加速してより短期間で自己家畜化した。 <中略> なぜならわれわれは、繁殖相手としてより従順なパートナーを選ぶからだ。
あくまでも仮説、証明しようのない仮説ではある。しかし、説得力のある仮説ではないか。「自己家畜化」といえば言葉の印象は悪いが、そうすることによって人間社会が築かれ、文明が発達してきたと考えるのが妥当だろう。ただ、日本人は自己家畜化が進みすぎているような気がしないでもないが。
リュドミラ・トルートは現在90歳、その優れた業績から2020年には米国科学アカデミーの会員にも選ばれている。大学卒業から文字通り生涯をかけて取り組んだ素晴らしすぎる研究の記録。世界中を探してもこのような本はないはずだ。研究は厳しい。しかし、そこにはロマンがある。