人生でもっとも長いおつきあいの書店は、紀伊國屋書店新宿本店である。かれこれ35年。つきあいが長くなれば倦怠期だってありそうなものだが、半日滞在しようが、週に何度も通おうが、いまだに飽きることがない。行くたびに発見や刺激があるのだ。こんな素晴らしい場所、他にあるだろうか。
本書は新宿本店で25年間にわたり文学書売り場に立ち続けた名物書店員の回想録である。とにかく楽しい本だ。読んでこれほど多幸感に浸れる本も珍しい。趣味の合う友人と愛読書について夜通しおしゃべりしているような楽しさがある。懐かしい本、記憶に残るフェアや売り場の話がこれでもかと出てくるのだから当然かもしれない。
1日の平均乗降客数353万人の新宿駅は、ギネスにも世界最多と認定されるほどのマンモス駅だ。そんな駅の駅前に店をかまえていれば、それはそれはいろいろな客がやってくる。
今もおぼえているのは、女装のおじさんである。死ぬほど短いレザーのスカートから丸見えになった赤いパンツのお尻をリズミカルに振りながら、店内をランウェイしていた。驚いた人もいたかもしれないが、ここは新宿である。以前、歌舞伎町で白ブリーフ一丁で犬になって散歩させられているおじさんを見たこともあるし、なにかのプレイ中だろうくらいにしか思わなかった。
「支店なら一年かけて起こるか起こらないかのトラブルが、ここでは一週間で起きる」と著者の上司は言ったそうだが、救急車やパトカーもよく来るし、機動隊が店の奥を封鎖したこともあるという。だから女装や仮装くらいではいちいち驚かない。傑作なのは、レジの前に立っていた女性がすうっと下に沈んだので、貧血か?と慌ててカウンター越しに覗いたら、前後にペタリと開脚してヨガを始めていたという話。謎すぎる……。
特殊な来店者でいえば、きわめつきはビル・クリントン元アメリカ大統領だろう。
回想録『マイライフ』が出版された時、新宿本店でサイン会が行われたのだ。事前打ち合わせの日、著者が1階の外売りのレジでボーッと通りを眺めていると、目の前にいきなり黒塗りの高級車が横付けされ、金髪の迫力美人と分厚い身体をダークスーツに包んだ男性2名が降りてきた。あとで打ち合わせの様子を聞いた著者は大コーフンする。護衛官が店内の狙撃ポイントを指摘し、至急改善するよう求めたというのだ。VIPを狙える死角はどこだったのか、気になる方はぜひ本書で確かめてほしい。
記憶に残るフェアやイベントも多い。文庫のフェアで今も記憶に鮮やかなのは、2012年に行われた「ほんのまくら」である。出だしの一文だけを記した特製カバーとビニールパックで本を覆い、書名も著者名も一切見ることができないようにして並べるというユニークな試みだった。書き出しだけでこんなに購買欲をそそられるのかと驚いたのをおぼえている。ちなみに、この時もっとも売れた本の冒頭の一文は次のようなものだった。
「あした世界が終わる日に一緒に過ごす人がいない」
今見ても、この後にどんな言葉が続くのか大いに気になってしまう。
ところで、「ほんのまくら」フェアは大盛況だったものの、思わぬ問題も生じた。特製カバーで覆ったためにバーコードが隠れてしまったのだ。レジでは書籍コードや価格をいちいち手打ちしなければならず大変だったらしい。相当、人でごった返していた記憶があるから店員は地獄だっただろう。
でも、こういう苦労も全部ひっくるめて、店頭でのフェアにはどこか祝祭感がある。
「課長、棚が!棚がカラになる!」
「よし、ここは俺たちが引き受ける。おまえたちだけでも外へ出るんだ!」
なんて、まるで映画かドラマのようなやり取りが交わされる。ちなみにこれは、村上春樹『1Q84』の発売日の狂騒の一幕。本が積んだ端からなくなってしまい、積んでも積んでもキリがなくて、この時は目の前に賽の河原のマボロシが見えたという。
読みながら、思わず膝を打ったところもある。
森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』が出た時、「応援ペーパーを作るから協力してほしい」と他の書店チェーンで働く人から連絡があった。快諾して応援文を送ると、後日完成版が届いた。著者の刊行の辞まで載っていて、裏は手書きの京都地図という凝ったつくりだった。このペーパーも懐かしい。有志が書店をまたいで著者を推すという従来にない動きだった(今では書店員の横のつながりも珍しくなくなった。これは「本屋大賞」の功績が大きい)。
それにしても、この時の書店員の盛り上がりようは独特だった。世間よりも一段階上の熱気というか。作品が面白いのはもちろんなのだが、なんでここまで書店員に刺さるのかが不思議だった。著者によれば、森見作品には「純粋で臍曲がりで情熱的な、愛すべき面倒くさい人々」がたくさん出てくるが、書店員にもそういう人が多いとのこと。なるほど、それであんなにツボにはまっていたのかー。
本書を読んでいると、本を売るためのあの手この手の工夫に頭が下がる思いがする。だが、いくら気合を入れて準備をしても想定外のことが起きてしまう。
ある話題作の発売日に向けて売り場を豪華に作りこんでいたところ、なんと当日は台風直撃で臨時休業になってしまった。ところが、この悪天候に作品世界の設定を思わせるところがあり、ファンはかえって大喜びで盛り上がったという。まさかの臨時休業も、その後のファンの好反応も、予測できる人なんていないだろう(この話題作は何でしょう?ヒントは「蝕」)。
バックヤードの話も面白い。なかでも「仕入名人」の職人ぶりがカッコ良すぎる。著者の先輩に、先を見越して商品を仕入れるのが誰よりも的確で早いプロフェッショナルがいた。新人の初めての本でも必要と判断すれば最初からドカンと仕入れるし、追加発注もべらぼうに早い。ところが、職人気質によくある話で、コツを聞いても「頭にピピピッと来た」とはぐらかされてしまう。そんな仕入名人が一度だけ、独り言のように極意を明かしたことがあった。POSデータだけでなく、名人はさらにその先をイメージしていたのだ。この話が参考になるビジネスパーソンは多いだろう。
本が売れないとよく言われる。だが、そういうグチは本書にほとんど出てこない。たぶん著者には嘆いているヒマなんてなかったのかもしれない。目の前の本をどう売るか、惚れ込んだ作家の作品をいかにして読んでもらうか、そのことだけを考えてきたのだろう。
このHONZも、微力ながらひとりでも多くの人に本を手に取ってほしいと願いながら書いている。だから著者の熱意に心から共感する。いや、著者だけでない。本を買ってもらうために奮闘しているすべての書店員に声を大にして言いたい。「皆さんの努力は、いつも見ています!」と。
最後にクイズをひとつ。
本を手に取ってもらうには、誰のオススメかも結構重要だ。例えば、毎年この時期になるとビル・ゲイツの推し本が公表されるが、やっぱり気になるし、読みたくなってしまう。
さて、それでは問題です。
「日本でもっとも本の売れ行きに影響力のあるインフルエンサーは誰でしょう?」
もちろん答えは本書の中に。ぜひぜひ手に取ってみてください。