彼の強さを確認するのは容易い。たとえば「井上尚弥 パヤノ」で検索してみよう。それだけで何本もの動画を見つけることができる。
2018年10月7日、横浜アリーナで行われたこの試合は、バンタム級最強を決めるトーナメント「ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ」の一回戦であるとともに、WBA世界バンタム級タイトルマッチでもあった。
勝負は一瞬でついた。王者の井上尚弥は元世界王者で挑戦者のファンカルロス・パヤノを、ゴングからわずか1分10秒でリングに這わせた。ワンツーの右ストレート。瞬殺だ。
強い。誰が見ても井上尚弥は強い。米国の歴史あるボクシング専門誌『ザ・リング』は、全階級を通じた最強ランキング「パウンド・フォー・パウンド(PFP)」を1989年から発表している。「もし階級や体重差がなければ誰がいちばん強いのか」を示すランキングで、過去の1位にはマイク・タイソン、フリオ・セサール・チャベス、オスカー・デラホーヤ、ロイ・ジョーンズ、フロイド・メイウエザー、マニー・パッキャオ、ゲンナジー・ゴルフキン、ワシル・ロマチェンコ、サウル「カネロ」アルバレスらスーパースターが名を連ねる。このPFPで、井上は日本人で初めて1位に選ばれた。世界最強と認められたのだ。
だが、井上の強さとは、つまるところ何なのだろうか。東京新聞運動部で記者をしている著者は、井上戦の記事を書こうとするたびに恐怖をおぼえるという。井上の凄みを余すところなく表現できるのか。世界タイトルマッチともなると闘いは高度な技術戦で勝負は紙一重である。なのに井上の力量が突出しているあまり、まるで「咬ませ犬」と闘ったかのように書いていないだろうか。そんな不安に襲われるという。
締め切りが迫る中、焦りだけが募り、結局いつもありきたりの言葉を並べて原稿の送信ボタンを押してしまう。著者もまた、井上に惨敗を喫するひとりだった。
本書はスポーツノンフィクションの今年最大の収穫である。ボクシングの魅力を見事に描き出しているだけでなく、読み終えた後に深い余韻を残す一冊だ。
井上尚弥の強さとは何か。このテーマに対し、著者は意外なアプローチを試みる。井上と闘って負けた選手に話を聞き、彼らの目を通して強さの核心に迫ろうとするのだ。もともとは編集者から出たアイデアだが、著者にとっては、言うは易し行うは難しだった。なぜなら、試合に負けたボクサーがどうなるかを嫌というほど見てきたからだ。
著者は学生時代、後楽園ホールでアルバイトをしていた。ボクシングの興行で最も多かったのは、グローブをボクサーに手渡す仕事である。選手の階級によって大きさの異なるグローブを用意して渡し、試合後に回収する仕事だが、負けた選手のもとにグローブを取りに行くたびに心が苦しくなった。泣きじゃくる者、疲れ切って起き上がれない者、顔面を血だらけにしたままトレーナーから罵声を浴びせられる者……。
そのうち涙の理由を理解できるようになった。ボクサーは試合に向けた数か月間、厳しい鍛錬を積み、過酷な減量に耐えなければならない。タイトルマッチなど、試合によっては長い年月の末にようやく巡ってきたチャンスもある。人生を賭けた勝負に敗れたとなれば、結果を簡単に受け入れられないのも当然だ。負けた選手がいかに傷つき、喪失感に苛まれているか。身をもって知っているだけに、敗れたボクサーに話を聞きに行くのは気が重かった。
本書には11名のボクサーが登場する。このうち井上と拳を交えたのは10名(残るひとりは未来の対戦者として挙げられている)。彼らが体感した井上の強さを以下に並べてみよう。
「試合であのアッパーが一番効いた。パンチをもらった右目だけでなく、あまりの衝撃で左目まで見えなくなったんです。『バン!』と打たれて両目とも見えなくなったんです」
「心・技・体でいうと、技と体が凄いのに心が弱いボクサーって多いんです。井上君は試合中に心の揺らぎがなかった。どんなときでも平然としていた。心がしっかりしているから、あれだけのパフォーマンスができる。僕は闘ってみて、ハートがモンスターだと思いました」
「先にアクションしようとしたら、既にバックステップしていて、もう届くところにいなかった。例えば、右ストレートを打とうと思ったら、打つ前なのに、既にガードの手がその位置にあったりとか。やろうとすることが全部先回りされているようで、心を読まれているなと感じました」
「これもまったく見えなかったんだ。何か引き金を引いて打たれたかのように、とても素早く、パーフェクトなタイミングだったんだろうな。だって、井上はパンチを打つ仕草さえ見せなかったんだから。信じられないパワー、スピード、絶妙なタイミングだった」
それぞれの言葉に耳を傾けるだけでも強さは伝わるかもしれない。だがこうした感想を追うだけでは、井上尚弥の本当の凄さを理解できたとはいえないだろう。本書の読みどころは、強さについて直接的に語られた部分よりも、一見それとは関係がなさそうな、それぞれのボクサーの人生にある。彼らがどんな人生を歩んできたかを知れば知るほど、井上の比類のない強さが浮かび上がってくるのだ。
たとえば、第一章に登場する佐野友樹は、エリートとは程遠いボクサー人生を歩んできた。小学生からジムに通い、中学時代は修学旅行を除き一日たりともジムワークを欠かさないほどのめりこんだ。高校は沖縄の強豪校にボクシング留学。だが「チャンピオンになるまで帰らない」と宣言して地元を後にしたものの、その後は苦労の連続だった。いい試合はするが、いつもあと一歩及ばない。チャンピオンの座は近いようで遠かった。そんなある日、佐野の右目に異変が生じる。手術からの懸命な復帰。壮絶なボクサー人生だ。気がつけば、佐野は31歳になっていた。
現役生活はそう長くないかもしれない。だからタイトルマッチ、もしくは大きい試合をやらせてほしい。そう望んだ佐野のもとに持ち込まれたのが、井上との試合だった。当時、井上はまだ日本ライトフライ級6位。佐野は日本ランク1位だったが、注目度、知名度とも井上のほうが上だった。2013年4月16日、後楽園ホールで行われた一戦は、テレビのゴールデンタイムで生中継された。
本書を読んで、佐野の闘いぶりに心を動かされない者はいないだろう。井上に圧倒されながらも耐えに耐え、粘り強く闘った。結果は10回1分9秒TKO。佐野は人生を賭けて闘い、そして敗れた。
佐野だけではない。本書に登場するボクサー全員が人生を賭けて井上との闘いに臨んでいる。勝負において、よく「失うものがない」などと簡単に口にする人がいるが、何かを背負っていない者など、ここにはひとりもいない。彼らはあらゆることを犠牲にしてボクシングに打ち込んできたのだ。その拳には積み重ねてきた膨大な時間の重みが込められている。
ひとりの人間の人生を丸ごと受け止めることなど普通はできない。だが、井上がやっているのはそういうことではないか。命がけで、全身全霊でぶつかってくる相手から逃げず、人生を賭けた思いを受け止め、未練を断ち切るかのように拳を振るう。閃光のように放たれたパンチは、まるで介錯するために振り下ろされる刃のようだ。井上によって対戦者はリングに沈め(鎮め)られる――。
だからかもしれない。本書に登場するボクサーは例外なく井上戦のあとに人生が変わっているのだ。力尽きるまで闘ったことを誇りに新たなステージに進んだ者もいれば、怪物に立ち向かった勇気を支えにリングに立ち続ける者もいる。井上の強さは、対戦した相手のその後の人生まで変えてしまう。そんなボクサーは過去には存在しなかった。
本書を読んでいると、不思議な感覚にとらわれる。敗者とは、はたして惨めな存在なのだろうか。ここに登場する全員が井上と拳を交えたことに感謝し、「負け」から何かを学んでいる。そして新しい一歩を踏み出している。そこに悲壮感はまったくない。
負けることの豊かさ――。そんな言葉が浮かぶ。井上に敗れたボクサーたちは、負けたことで大切なものを手に入れた。彼らの言葉が心の奥にまで響くのは、人生が負けの連続であるということを、私たちが知っているからかもしれない。
本書に登場するボクサーでは黒田雅之が印象に残った。井上と150ラウンド以上ものスパーリングを重ねた「怪物と最も拳を交えた男」である。あまりに強すぎる井上とのスパーリングは、ケガのリスクもあり断る選手も多いという。そんな中、誰よりも井上に向かって行ったのが黒田だった。
だが、世界王者にはなれなかった。ファミレスやコンビニ、介護施設で働きながらボクシングにすべてを捧げてきたが、ある日、大ケガを負ってしまうのだ。
引退を決め、ジムに挨拶に訪れた黒田の前に、練習を終えた井上が現れる。これまでスパーリングでは感想を少し言い合う程度でじっくり話したことはなかった。この時、初めて井上が黒田に語りかける。真剣に拳を交わした者にしかわからない真情が込められた言葉に、読んでいて胸が熱くなった。
ボクシングは残酷なスポーツだ。すべてを犠牲にして努力しても、一発で夢を砕かれてしまうのだから。だが、敗者はその夢を勝者に託し、勝者は何も語らず敗者の人生を背負って闘い続ける。ボクシングは、この上なく美しいスポーツでもある。
残酷さと美しさ。その両方に惹かれるからこそ、リング上の闘いから目が離せない。私たちが闘いの向こうに見ているのは、人生という名のドラマである。