青森から、HONZメンバーの青木薫さんが上京されると聞き及んだ。骨太な新刊『遺伝と平等』の翻訳について、日本の代表的な書店のひとつ、紀伊國屋書店新宿本店にて語り尽くすという(青木薫の推薦本フェアは3階人文書コーナーレジ前で開催中 期間はお店に確認してください)。何を隠そう、聞き手は私、HONZ副代表の東えりかである。『フェルマーの最終定理』を始めとるするサイモン・シンの著作は累計122万部だそうだ。2023年度日本翻訳家協会賞〈翻訳特別賞〉を受賞したばかりの青木さんに、新刊について、そして、翻訳の極意について、聞いてみた。普段は人前で話す機会が少ないからと遠慮がちだった青木さんだが、聞けば止まらないそのトーク、お届けします。
東 みなさんご存知のように青木さんは科学書の翻訳家として多数のベストセラーを出しておられます。特にサイモン・シンの翻訳では、多くのファンを獲得しました。『フェルマーの最終定理』『暗号解読』『宇宙創成』『代替医療解剖』などもたくさんの著作を訳されています。翻訳家の仕事はいつからされて、いま何冊くらい出版されたのですか?
青木 30歳で始めました。ですからもう37年のキャリアになります。冊数は数えるのをやめてしまったのでよく分かりませんが、先ほど調べてもらったら、65冊から70冊の間くらいのようです。
東 われわれの出会いはHONZというインターネット書評サイトです。その最初のメンバー10人くらいが、青木さんの本のファンばかりでしたので「青木薫のサイエンス通信」を担当していただくことに。ニューヨーカーという雑誌のサイエンス記事の紹介や、日本の科学書の読み解きなどを執筆してもらっています。もともと『遺伝と平等』について知ったのも「ニューヨーカー」からなんですよね。
青木 そうなんです。ニューヨーカーの最新版をめくっているときに、見開きにドラマチックなポーズで登場していたんです。それが著者のキャスリン・ペイジ・ハーデンでした。女優さんかしらと思って記事を読み始めたら、本書の内容そのままの凄いハードで濃い話で、思わず読みふけって。近年、遺伝学が大きく発展して膨大な情報が流れ込んできているのに、優生学の負の遺産のせいで、遺伝学の成果から目を背けてしまう傾向があるけれど、それではいけないとその記事は警告していました。遺伝の影響に目をつぶることを、彼女は「ゲノムブラインド」と呼んでいます。それをやっていたのでは、遺伝学という分野が、優生主義者の草刈り場になってしまう、というのがその記事の切り口でした。
実は、そのゲノムブラインドな態度は、私も非常に引っかかっていたところでした。私もハーデンも子供を二人育ててます。子供というのは生まれた時から、それぞれかなり違っていますよね。それなのに保育園の頃には、「生まれた時点では、子供たちはみな同じだけの可能性を持っている」というスローガンを聞かされるわけです。もちろん、そう言いたい気持ちはわかるし、そうであってほしいとも思います。しかし、現実にはみんな大きく違っているでしょう。その違いを見ないことにして、無かったことにしてしまって、本当に子供たちの成長のためになるのかな、とずっと疑問を感じていました。
そんなわけで、ニューヨーカーがハーデンに取材した記事を読んで、とても共感しました。現在、ネットに全文公開されていますので、興味のある方は読んでみてください。かなり長いですけど。
私はニューヨーカーの記事でハーデンを知っていたので、新潮社さんから翻訳依頼が来たときには、「これだ!」とお引き受けすることにしました。
『遺伝と平等』の構成
東 本書は2部に分かれています。第一部は遺伝学の最新の発展を詳しく説明し、第二部は、その知見を踏まえたうえで、「平等」で公正な社会を、どうやって作っていくかを考えます。このことをまず頭に入れていただき読み始めると、理解しやすいと思います。本書を訳されていかがでしたか。
青木 非常にセンシティブで難しい問題ですよね。わたしはハーデンが、この論争的なテーマをとことんかみ砕いて、わかりやすく伝えようと努力していることに感銘を受けました。
ポイントとして、第一部は「遺伝統計学」の「GWAS(ジーワス)」(ゲノムワイド関連解析)という手法が、じつにわかりやすく説明されていることを挙げたいです。この手法のおかげで、遺伝統計学の精度がぐんと上がり、「GWAS革命」と言われることもあるぐらいなのですが、これについて書かれた一般向けの本はまだほとんどありません。きちんとした一般向けの解説は、おそらくこれが本邦初なのではないでしょうか。今後、遺伝の影響はGWASなくしては語れないと思います。
東 ハーデンは容姿端麗で、テキサス大学の心理学の教授で、遺伝的な平等を唱えているということで、なんか穿った見方をしてしまったんですが。
青木 私もです。テキサスというだけで、差別の多い保守的な土地柄だと思ってしまいかねない。それなのに、ハーデンのこの戦闘的なリベラルさは何なのだろう、と驚きました。戦闘的にならざるをえない面もあると思うんですよ。彼女は白人至上主義の中にある優生学的な思想と本気で戦っています。
日本は人種差別も白人至上主義も、アメリカにくらべればないように思っていますが、しかし読んでいくと、自分の中に「差別」「区別」「比較」の意識、生きるに値する命かどうかといった問題が、思わぬかたちで染み込んでいることに気づかされるのではないでしょうか。ハーデンの闘いは、けっして他人事ではないのです。
東 その通りだと思います。
青木 遺伝的な差異を調べるためには、昔から一卵性と二卵性の双生児に関する研究が各国で行われてきました。ハーデンもその研究者です。双子研究には紆余曲折があって、やはり批判されることも多かったんですね。ハーデンはテキサス大学で「双子研究所」を共同主催しています。その研究成果にも注目してほしいと思います。
遺伝の研究では、まず「病気の治療」が目標でした。GWASも病気の遺伝性を調べるための手法として開発された。ですが、遺伝性を持つのは病気だけでありません。研究の進展に伴い、例えば身長や目の色はもちろんのこと、性格や能力といったものにまで遺伝的要素があることがだんだんわかってきた。
背丈に遺伝性があっても誰も驚かないし、それを研究したからといって誰も文句は言いませんが、先ほど言ったGWASにより研究の精度が上がったことで、性格や能力まで遺伝の影響があると言えてしまう。そうなるとこれは、マジヤバイ、ですよね。性格や能力は、人間の「優劣」という考え方にあっさり結びついてしまいますから。
一方で、本書の中で「自己責任」という言葉がよく使われていますが、われわれが誕生時に引かされるいろいろな「遺伝クジ」の結果を全部合わせると、「自己責任」などといえる部分はほとんどなくなる、とハーデンは言います。
遺伝的なくじだけではなく、時代も場所も、親の経済状態も選べるわけではない。いまの時代に日本に生まれるか、アフガニスタンに生まれるか、それもくじです。自分の力でどうこうできることではない。遺伝もくじの一つだと認めたうえで、では、どんな社会にすべきなのか、というのが第二部のテーマとなります。
『遺伝と平等』をよりよく読むために
東 ここでちょっと脱線して、本書を読むための補助線になる著作を、いくつか紹介したいと思います。(フェアのための小冊子が作られており、青木さんの著訳書のほか、『遺伝と平等』を読む補助線となる関連本なども紹介している)
青木 はい。この本の補助線となる遺伝学的なものとしては、GWAS関連ではないのですが、『ネアンデルタール人はわたしたちと交配した』『交雑する人類』の二冊を挙げたいと思います。遺伝学のテクノロジーが進展して、非常に精度が上がっているということがわかります。
青木 人生における「くじ」つまり「運」については、最近文庫化されたマイケル・サンデルの『実力も運のうち』が良いです。学歴社会の頂点ともいうべきハーバード大学の教授であるサンデルは、学生たちに「自分の努力だけでハーバードに来られたと思うなよ」と口を酸っぱくして言っています。そしてもう一冊が、 NHKの『100分で名著』の「ブルデュー ディスタンクシオン」。フランスの哲学者ピエール・ブルデューの著作を社会学者の岸政彦さんが紹介しています。フランス現代思想の本そのものを読もうとすると大変なんですが、今や知らない人でも知っている「文化資本」について、とてもうまく説明しておられます。
青木 ハーデンの本の原題は、「遺伝クジ:なぜDNAが社会の平等にとって重要なのか」です。遺伝もまた、自分の力ではどうしようもない、生まれたときに引かされるくじの結果です。だから「遺伝くじ」なんですが、それを、「自己責任」としてしまっていいのか。いやそうじゃない、というのがこの本のメッセージなのです。
東 どれも読んでみたくなる本ばかりですね。
青木 実際、生まれ持った特性のために必須のサポートもある。そこに目をつぶっていいわけがない。的確に提供するためにも、まずは遺伝の影響を抑えなければ、とハーデンは力説します。しかし、遺伝学と優生学は、学問分野として誕生したときから絡み合ってしまった。ハーデンは、その絡み合いをほどき、遺伝学を優生学から奪還し、自分ではどうにもならない遺伝的素質を見極めたうえで、平等で公正な社会を模索すべきだ、と主張しているのです。
東 本書を読み進めていくと、自分の中にはないと思っていた『優生学的な思想』に気づかされてハッとしました。
青木 ぞっとしますよね。それをハーデンが必死に分かってほしい、気づいてほしいと訴えている感じがします。
東 宗教的な部分はどうでしょうか?
青木 ハーデンは驚くほど聖書の言葉を引用しています。アメリカの、とくに南部テキサスあたりでは、キリスト教が根強く息づいているのを感じます。彼女自身、旧約聖書を丸暗記するような家に生まれて育ってますから。とはいえハーデン自身はまったく宗教的な人ではないのですが。
キリスト教にかぎらず世界中のどんな文化も、伝統や家系、ひいては遺伝への関心は強いですよね。そしてその分、誤解も多い。本書に出てくるように、「系図を九代もさかのぼれば、その代のご先祖さまから受け継いでいる遺伝物質はほとんどない」とか、「シュメールの時代ぐらいまで時代をさかのぼれば、その当時生きていた人全員が、今生きている人全員のご先祖様だ」とか、私もびっくりする情報に満ちています。
翻訳家として心がけること
東 『遺伝と平等』を翻訳していて、引っかかるところはありましたか。
青木 じつは、この本を読むまでわたしは「GWAS」を知りませんでした。それに、(配布した冊子にも、補助線となる本として挙げた)『因果推論の科学 「なぜ?」の問いにどう答える』も読んだことがなかったので、因果関係のこともほとんど考えたことがありませんでした。
青木 私は理論物理出身なので、因果関係の考え方がシンプルで、簡単に白黒つけられるような気がしている。なにしろ頭の中にあるのは、素粒子たちの素過程ですから(笑)。素粒子が相互作用して、ああなってこうなって、というシンプルなイメージです。
でも、人間をとりまく現実の世界は、実に複雑です。因果推論は、哲学的にも古くて新しい問題だということを知りました。相関関係を因果関係だと思い込んではいけないのは当然のこととして、じゃあ、因果関係とは何なのか、ということです。本書の翻訳を引き受けてから、そこは勉強し直しました。
東 一冊の本を訳すために、膨大な学習量が背景にあるのですね。翻訳家として著者と専門家の間に挟まって、大変困ったこともあったそうですね。
青木 そうなんです。サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』を訳していたときのこと、この本の中で重要な役割を演じるプリンストン大学の数学者、志村五郎先生に質問の手紙を差し上げました。そうしたら、質問に答えてあげる代わりに、サイモン・シンの原文を書き換えてもらいたい、という返事が来てしまって。
青木 志村先生の書き換え案は数学的に非常に高度で、サイモン・シンの本では定義されていない概念も含まれていました。当然サイモン・シンは受け入れるはずもなく、私は板挟みの状況に陥ってしまいました。
結局、志村先生が来日されたときに直接お目にかかり、本書はあくまでも一般向けであり、一般読者にわかってもらうことにサイモン・シンはエネルギーを注いでいるのだと説明して了解を求めました。サイモン・シンもタフで絶対に妥協しないので、このエピソードは一生の思い出です。最終的には志村先生から、「ご苦労様でした」とねぎらっていただいきました。この経緯を2023年5月号の数学セミナーにエッセイとして書いていますので、ぜひ読んでみてください。
ただ、直接にやりとりすることには良し悪しがあるので、基本的には、今は編集者に間に入ってもらって質問などのやり取りをするようにしています。
東 科学者とサイエンス・ライターの違いはどんなところですか?
青木 サイモン・シンは、一般読者に「分かったつもり」になってもらうために、とてつもない努力を重ねていると思います。「分かったつもりにさせる」というのは、「テキトーに言いくるめる」というのとはもちろん全然違います。科学者の知識がない人に、本質を伝えて感動してもらうのは、けっして簡単なことではありません。私はサイモン・シンがやろうとしていることがよくわかります。
自著『宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論』と日本翻訳家協会翻訳特別賞を受賞された『科学革命の構造』について
東 ご自分で書かれた『宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論』はどういう経緯で書かれたんですか? 「人間原理」というのはあまり聞かない言葉ですね。
青木 歴史的経緯もあって、科学の世界では、キリスト教の臭いがする学説はすごく嫌われるんです。宗教の気配があると警戒されてしまうんですね。無理もないことだと思います。二十世紀当初、キリスト教の宇宙観にあまりにも近いとして蛇蝎のごとく嫌われた学説に、ビッグバンと人間原理があります。
人間原理というのは、要するに、「この宇宙は人間に都合よくできている」という話ですから、誰しも「ふざけるな!」と思いますよね。でもよく調べてみると、宗教が言っていることとはむしろ真逆。人間が存在できないような宇宙なら、そもそも人間は存在しない。
逆に、現に人間が存在している宇宙の場合、その人間がまわりを見渡して、「われわれが存在するのにうってつけの宇宙だ」と考えるのは当たり前なのです。(これを「観測選択効果」と言います。)私は、宗教とのからみで、学説史が紆余曲折するダイナミクスに興味がありました。
とはいえ、この本に対する「読者からのおたより」は、内容を誤解されたものが多かったですね。「人間と宇宙について、自分がこれまで考えてきた説を聞いてくれ」といったお便りもありました。でもこの本は、トンデモ本ではありません!
東 ここで『遺伝と平等』に戻りますが、人間原理と同じように、遺伝学と優生学を切り離し、遺伝的な要素をしっかり押さえなければ本当にフェアな社会は作れないよ、ということを一般の人にわかってもらうのは大変だと痛感するのですが、なぜハーデンは膨大な時間を使ってこの本を書いたのだと思いますか?
青木 ひとつには、やはりお子さんのことがあったからだと思います。大きな違いのあるきょうだいを育てるという経験が、彼女をこの課題に取り組ませた面はあるでしょう。
彼女がとくに喫緊の課題だと思っているのは、良き意図からなのだとしても「遺伝なんか関係ない。フェアな社会を作るためには、遺伝をうんぬんしてはダメなのだ」と考えている人たちに、そうじゃないんだとわかってもらうことだと思います。フェアな社会を目指すためには、遺伝学を味方につけなければならない、と。
東 最後に今年の日本翻訳家協会翻訳特別賞を受賞された『科学革命の構造』についてお伺いします。
青木 私のような職業翻訳家の場合、原書との出会いは、たいていは「お見合い」みたいなものです。版元さんから「この本、訳しませんか」とお話をいただき、自分のスケジュールや、本の内容との相性などを考えて、受けるか受けないかを決めるわけです。しかし、この『科学革命の構造』の場合は、私から一方的にプロポーズして、18年かけて恋を実らせたという特殊なケースなのです。
原書は1962年に出版され、科学哲学と科学史に激震を起こし、サイエンス・スタディーズ(科学論)という分野の誕生を促した重要な本です。「パラダイム」や「パラダイム・シフト」といった言葉も、この本から出てきました。すでに翻訳はあったのですが、さまざまな事情から、ぜひとも自分で新しく訳したいと思いました。今回、翻訳で使った原書は、『科学革命の構造』の五十周年記念版で、哲学者イアン・ハッキングの序説がついています。この序説がとても良い内容なので、ここだけでもぜひ読んでほしいです。
東 私も少しずつ読み進めています。今日はありがとうございました!