こんなに面白い伝記を読んだのは初めてかもしれない。「面白い」という言葉には、「ワクワクする」「興味深い」「楽しい」「目が離せない」「胸が熱くなる」「笑える」などいろいろなニュアンスが含まれるが、本書にはそのすべてが詰まっている(実際、声をあげて笑った箇所もあった)。間違いなく今年を代表するノンフィクションだ。
イーロン・マスクを知らない人はおそらく少数派だろう。世界有数の起業家として、あるいは世界一の大金持ちとして、彼が次に挑む分野から下世話なゴシップに至るまで、その動向が話題にのぼらない日はない。そうした情報に日々触れていると、イーロン・マスクという人物をなんとなく知ったつもりになってしまう。むしろそういう人にこそ本書をおススメしたい。
マスクはテクノロジーによって人類の歴史を前進させてきた人物だ。電気自動車によって世界の自動車業界の地図を塗り替えたテスラ。民間が独自開発したロケットで初めて打ち上げに成功したスペースX。その他にも、人型ロボットや人工知能の開発にも乗り出している。昨年ツイッター社を買収し、金融決済機能も備えた新しいプラットフォームに生まれ変わらせようとしているのもよく知られているとおりだ。
本書は上下巻に分かれる。上巻はマスクの生い立ちに始まり、テスラ、スペースX両社を軌道に乗せるまでが描かれ、下巻ではツイッター買収劇が中心になる。上巻だけでも相当に内容が濃いが、本書の最大の売りは下巻である。これまでマスクに関する本は何冊も出版されているが、ツイッターの買収劇にまで触れたものはない。このツイッターの買収こそがイーロン・マスクという人物を理解するうえでの重要な鍵だと思うのだ(後述)。
本書を書くために著者はマスクに2年間密着したという。世界を変えてしまうような成果を次から次へと生み出す一方、かなりの人格的欠陥も抱えた人物を間近で観察しながら、著者が抱いた問いは、次の一言に集約されるかもしれない。
「もしかして、あの性格と成果はセットなのか?」
マスクは、自らをアスペルガーだとしている。社会性や人間関係、共感、自制などに影響のある自閉症スペクトラム障害の一種で、空気を読むのが大の苦手である。その一方で工学、物理学、コーディングなどかっちりしたものを好み、いったん作業を始めると過集中で寝食を忘れて取り組む。
生まれつきの障害に加え、マスクは子ども時代に父親から凄まじい虐待も受けている。父エロールは控え目に言ってもクズ野郎だ。暴力や暴言は日常茶飯事。まだ12歳のマスクを死人が出るようなサバイバルキャンプに放り込んだり、愛犬を撃ち殺したり、ひどい目にあわせている。その結果、どういう人物ができあがったか。マスク本人の言葉を聞こう。
「私は苦しみが原点なのです。だから、ちょっとやそっとでは痛いと感じなくなりました」
子ども時代のPTSDによって、マスクは痛みや恐れを遮断する術を身に着けた。だがそれは、喜びや共感などの感情も一緒に遮断してしまう。この感情遮断弁のせいでマスクは冷淡だと非難されるが、これがあるからこそ、積極的にリスクを取るイノベーターにもなれたのである。なんとも皮肉な話だ。
こういう人物のもとで働くのは大変である。本書にはマスクの元を去った者も数多く出てくる。自ら去った者、クビになった者、まさに死屍累々という表現がぴったりだ。それくらいつきあうのが大変な人物なのだ。創業当初からスペースXを支えたある社員が、マスクの不興を買い(どう見ても間違っているのはマスク)会社を去ることになった。最後の打ち上げを見届け、マスクとハグして言葉を交わし、立ち去ろうとした途端、マスクは何もなかったかのようにスマホを取り出しツイッターを確認し始める。見かねたパートナーのグライムスがたしなめる。
「彼にとって最後のミッションなのよ?」
マスクは人間関係の機微がまるでわからない。だから他者への攻撃は苛烈を極める。それが理詰めだから責められた部下はなおのこと逃げ場がなくなってしまう。おまけに目標を達成するためにあり得ない締め切りを設けて猛烈に従業員の尻を叩く(叱咤激励ではなくほとんど脅迫だ)。それもマスク自ら職場に泊まり込み作業をするのだから、余計に部下は逃げられない。ブラックもいいところだ。
一方でマスクにはツッコミどころ満載で憎めないところもある。マスクはよちよち歩きの息子Xをよく現場に連れて行くのだが、危ない場所だろうがおかまいなしに興味を示すXを評して、危険への許容度が高すぎるのは問題だとマスクがこぼすのに対して、著者はすかさず「どの口が言うか」とツッコミを入れている。その筆致はどこか楽しげだ。
さて、本書の読みどころにも触れておこう。
刊行直後に本書のスクープとして大きな話題になったのが、ウクライナとの一件である。ロシアの侵攻によって通信インフラを破壊されたウクライナ側の要請に応じ、衛星通信ネットワークのスターリンクの端末を提供しネット環境を回復させたことで、マスクは世界から賞賛された。ところが、クリミアに駐留するロシア海軍をウクライナが無人潜水艦で攻撃しようとしていることを知ると、スターリンクの接続を切り、攻撃を妨害したというのだ。
この件が報じられた途端、SNSにはマスクを非難する声があふれた。ただ、これはメディアの切り取り方にも問題がある。本書を読むと、マスクはひよったわけではなく、確信をもってスターリンクを切断したことがわかる。マスクは筋金入りの軍事史オタクで欧州軍事史にも詳しい。その知識もとに、クリミアを叩けばロシアは核攻撃に踏み切る可能性が高いと判断したのだ。このあたりの詳しい経緯はぜひ本書で確かめてほしい。
著者は当代きっての評伝の名手である。著者ほどの書き手ともなると、どのエピソードを採用し、何を捨てているかは、読者としても興味をそそられるところだ。
個人的にはビル・ゲイツとのすれ違いの話が面白かった。あることが原因でマスクはゲイツに腹を立てるのだが、ゲイツにはその理由がぴんとこない。ふたりの違いが浮き彫りになって面白い。
かたや世間でそれなりに話題になったゴシップには著者は興味を示さない。グーグル共同創業者のサーゲイ・ブリンの元妻とマスクが関係を持ち、それが原因でマスクとブリンが仲たがいしたという一件にも著者は軽く触れるだけだ。マスクによる事前の原稿チェックはまったくなかったそうなので、この件は著者がどうでもいいと判断したのだろう。
マーク・ザッカーバーグの名が出てこないのもどうでもいいと判断されたからかもしれない。その理由もわかる気がする。テクノロジーによって本気で人類の歴史を変えようとしているテスラやスペースXと比べると、メタがテクノロジー企業と言えるのかはなはだ疑問だ。フェイスブックにあれだけの詐欺広告が放置されたままというのはどう考えても異常である。マスクならブチ切れて一日で改善させるだろう。マスクと比べるとザッカーバーグはどうにも小粒である。
さて、マスクは現在、テスラ、スペースXとそのスターリンク部門、ツイッター(X)、ザ・ボーリング・カンパニー、ニューラリンク、X・AIと6社を経営している。スティーブ・ジョブズでさえ同時経営はアップルとピクサーの2社だった。マスクがすべての現場にコミットしていることを考えれば、これは驚異的だ。ただこの中で1社だけ、毛色の違う会社がある。ツイッターだ。
マスクがもっとも苦手とするのは、人間の感情を相手にすることだ。エンジニアリングであればマスクは直感的に理解できる。ツイッターについても当初マスクはテクノロジー企業だと考えていた。だが実際は、人間の感情や関係に基づいた広告メディアである。
匿名SNSは人々の感情の掃き溜めだ。そこには剥き出しの悪意や憎しみが渦巻いている。そうしたものと上手に距離をとることがマスクにはできない。だからツイッター買収後もいろいろとやらかしてしまう。かつての部下の身を危険にさらすあり得ないツイートを投下したり、陰謀論に影響されマスク自身が「闇落ち」したり。この先、ツイッター買収がマスクのキャリアの中で黒歴史にならないとも限らない。
そんな懸念もあるが、ことテクノロジーに関しては、やはりマスクは一流のエンジニアであり経営者だ。マスクはいま、AIの開発に取り組んでいる。生成AIの先を行く汎用人工知能をつくろうとしているのだ。新しいものをつくろうとするとき、マスクはすべての「当たり前とされていること」を疑ってかかる。唯一疑わないのは、物理法則だけだという。本書を読んでいると、マスクならやり遂げるのではと思えてくる。
だが、目指すゴールはそこではない。Ai開発の先に、マスクはさらなる目標を持っている。それは人類の未来に関わる壮大なものだ。その目標には実は元ネタがある。子ども時代に大きな影響を受けた『銀河ヒッチハイク・ガイド』である。
このことを知ったとき、深い感動をおぼえた。子どもの頃にワクワクさせられたビジョンを、彼はいまだに追い求めているだけなのだ。なんという純粋さだろう。
50歳を超えた大人は普通、あらゆるしがらみにがんじがらめになっている。それは有刺鉄線のように人を身動きできなくしてしまう。だがマスクはおかまいなしに前へ進む。皮膚は裂け、血塗れになる。それでも、前へ進むのだ。
私たちの多くは人はマスクのように生きることはできない。だが、とうの昔に見失ってしまった情熱の源に思いを馳せることはできる。
子どもの頃に夢中になったことは何だろう――。本書を読み終えて、そのことばかり考えている。