独裁者アドルフ・ヒトラーが建設したベルリンの総統官邸の中庭には2体の巨大な馬のブロンズ像が立っていた。1体はちょうどヒトラーの執務室の前に飾られており、ヒトラーがその馬の像を眺めながら日々の執務をこなしていたことは間違いないであろう。作者はヨーゼフ・トーラックといいヒトラーお気に入りの芸術家でナチスの庇護のもとで名声を博していた。このほかにも官邸入り口にはアルノ・ブレーカー作の『バルタイン(党)』と『ヴェーアマハト(国防軍)』という2体の男性像が飾られていた。いずれも、ゲルマン民族の優越性と勃興を掲げていた独裁者が好みそうな威圧的で威風堂々とした作品であった。
しかし大戦末期ベルリンは戦火に見舞われ、総統官邸もヒトラーが自殺を遂げてしばらく後にソ連軍より破壊された。この時、これらの芸術作品も破壊されてしまったのだ。少なくとも2015年まではそう思われていた。
本書の著者であるアルテュール・ブラントは美術鑑定人で美術品の調査を手掛ける会社「アルティアス」を経営している。200点以上の盗難美術品の発見を手掛けるなどして「美術界のインディージョーンズ」との異名をとるほどだ。実は違法な美術品の取引は毎年70億ユーロに達し、CIAによれば麻薬、資金洗浄、武器取引についで世界第4位の後ろ暗い収入源になっているという。私たちが想像しているよりも闇の深い世界なのだ。
そんな著者のもとに旧知のミシェル・ファン・レインから連絡が入る。この男も食わせもので、美術界の暗部で蠢いていた犯罪者の一人だ。ロンドン警視庁の言を借りれば「美術界の大スキャンダルの90パーセントに関与し、残りの10パーセントにも関与していると言いたがる」男だ。現在は足を洗いロンドン警視庁の調査に協力しているという。最も警察の協力者というのは表の顔で裏では今でも闇取引に関与しているとのうわさも絶えない。
著者はファン・レインと数十年に渡り交友関係を築いてきたが、ファン・レインのクセの強い性格などが原因で近頃は疎遠であったという。そんな彼が持ち込んできた話題が、総統の執務室の前に立っていたというトーラックの馬であった。二人の共通の美術品ブローカーのスティーヴンがファン・レイン宛に1通のメールを送る。そこには失われたはずのトーラクの馬の銅像2体がカラー写真で添えられていた。写真は明らかに最近撮影されたものだ。そして、ある秘密の名士がこの馬の銅像を売りたがっているなだと記されている。ただし、物が物だけに売買されたことも、この銅像が存在することを秘密にできる買主に売りたいという申し出であった。
ファン・レインはこの馬を即材に偽物と判断する。著者も同じ意見だ。おそらくネオナチが活動資金を捻出するために贋作を美術品の闇市で売りさばこうという魂胆だろうと。ファン・レインは母親がユダヤ人であったために、即材にスティーヴンとその背後にいるネイナチを炙り出そうと決め、アラブの富豪などで買い手が見つかるかもしれないと返事を返した。しかし、しばらくするとスティーヴンから「あれは贋作だった。この話はなかったことにしてくれ」という内容のメールが届き、以後、連絡が途絶えたという。しかしファン・レインはどうしてもは背後に居るネオナチを闇の中から引きずり出したい。そう考え、著者にこの件の調査を依頼する。
実は著者にはこのトーラックの馬に関する一つの考えがあった。著者の見立てではおそらくこの贋作を製作したのはドイツのある組織<シュティッレ・ヒルフェ(静かなる助言)>ではないかと。この組織はドイツ敗戦後に結成された謎の多い組織で、ナチス戦犯の海外逃亡や逮捕されたナチスの支援などを行っている。また、ドイツに根深く残るネオナチの支援なども行っているらしい。組織の全体像については謎が多いのだが、表向きの代表は「グドルン・ブルヴィッツ」という高齢の女性だ。ブルヴィッツは夫の姓で旧姓はヒムラー。そうナチス親衛隊の隊長でヒトラーの側近のひとり、ハインリッヒ・ヒムラーの娘だ。多くのナチス高官の子供が表向きは父との間に距離を置くことで戦後を生きてきたのに対し、彼女はヒムラーの娘として父の名誉を回復させることをその生涯の使命として生きているという。彼女の存在をどう受けていいのか、読者の多くは、にわかに判断しかねるのではないだろうか。彼女が率いるシュティッレ・ヒルフェは近年資金繰りに苦慮しているという。
この線で調査を進めた著者たちだが、ファン・レインに送られた銅像の写真を調べれば調べるほど、贋作とは思えない精巧な作りなのだ。これはどういうことなのか。調査を続ける中で著者はある有名なドキュメンタリー映像に着目する。それは、ヒトラーが自殺する数週間前に撮影されたニュース映像だ。ベルリンが包囲される中で戦功のあったヒトラー・ユーゲントの少年たち一人一人とヒトラーが握手を交わす、あの有名な映像だ。場所は総統官邸の中庭。その背景にはトーラックの馬の飾れていた総統執務室前が一瞬だけだが映っていた。しかし、そこにはあるはずの馬の像が無い。ヒトラーはベルリンが包囲される前にトーラックの馬を疎開させていたのだ。もしかしたら、これは贋作ではなく本物のトーラックの馬ではないのか。ではどのようにして、これほどの長いあいだ3メートルを超える巨大な銅像が2体も人目に触れることなく、保管されていたのだろうか?誰が隠し持っていたのか?調査すればするほど謎が謎を呼ぶ。 こうして、著者は旧ソ連のKGBや旧東ドイツのシュタージ、そして、ドイツ社会に深く根づくネオナチが複雑に絡み合う戦後ドイツ史の迷宮へと歩を進めていくことになる。それは調査前に想定していた以上に危険に満ちた世界でもあった。
まるで映画のような話だが、著者の前に現れる怪しくも個性の強い人々はみな実在の人物であり、彼らは彼らの夢と野心、そして思想に突き動かされながら、未だにナチスという歴史の暗部に絡めとられて生きている。その事実に改めて圧倒されるのである。
ネオナチのような極右は貧困層などが多いと思われがちだが、ドイツでは上流階層の人々でもネオナチの信奉者が多いことがわかる1冊。
ナチス戦犯の子孫がいかにして父、祖父の犯した大量虐殺という行為と向き合って生きていくのか。その難しさを知ることができる1冊。