宇宙生物学からヒト脳オルガノイドが「生きているか」問題まで幅広く扱われた良書──『「生きている」とはどういうことか:生命の境界領域に挑む科学者たち』

2023年7月5日 印刷向け表示
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作者: カール・ジンマー
出版社: 白揚社
発売日: 2023/7/4
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「生きているもの」と「生きていないもの」を見分けるのは、直感的には簡単に思える。たとえば、人間や犬が生きていること、石のような無機物が生きていないことにそうそう異論は出ないだろう。しかし厳密に境界線を引こうとすると、ことは途端に難しくなる。たとえば「自己複製するか」「自分で代謝活動を行うか否か」あたりの細胞性生物の特徴を「生命の定義」にしようとしても、(基本的に)自己複製しかできないウイルスは生物とはいえないのかという話に繋がってしまう。しかも、ウイルスは近年の研究ではタンパク質の合成に関わる酵素を持つものもいることが判明して──と、例外的な存在が次から次へとでてきてしまう。

というわけで本書『「生きている」とはどういうことか』は、生命の定義を様々な分野、ジャンルを通してみていこう、という一冊である。最初に例にあげたウイルスは生物なのか問題も取り上げられるし、多能性幹細胞から分化誘導して作られたヒト脳オルガノイドはどこまで成長しどんな反応を返すようになったら「生きている」といえるのか? から宇宙生物学まで、本当に幅広い分野を網羅している。対象は生物学にすら限定されない。たとえば生命の定義をめぐる歴史も随所に挟まれるし、脳死は死なのか、心臓が動いていたら生きているのか? という医療分野の議論までもが取り上げられていく。

著者のカール・ジンマーは長年生物学関連のポピュラー・サイエンス本を書いてきたライターにして『ニューヨーク・タイムズ』紙の科学コラムニスト。本書も専門的な内容に終始せず、広範な取材と情熱的な筆致でぐいぐいと読者をひっぱってくれる。「生命とは何か」は生物学における明確な答えの出ない王道のテーマであり、その分書き手の力量がもろにでるが、本書は真正面からそのテーマを描ききってみせた。

ヒト脳オルガノイドは「生きて」いるか?

本書の第一部で取り上げられているエピソードは、ヒト脳オルガノイドについての研究だ。オルガノイドは「臓器(organ)のようなもの」を意味している。人間から皮膚のサンプルを採取して、細胞を一度幹細胞に変化させてから誘導することで脳の組織のごく一部をほぼ神経細胞だけで再現したのが脳オルガノイドであり、その言葉からシンプルにイメージされるような、「人間の脳をまるっと再現」したようなものではない。

著者がこの件について取材に行ったのはサンディエゴの研究所であるサンフォード再生医学コンソーシアムだ。そこで研究者たちは数千にも及ぶ脳オルガノイドを所持し、宇宙ステーションに脳オルガノイドを送り込んでその影響を調べたりと、数多くの実験・研究を行っている。脳オルガノイドはニューロンが成熟するのに伴ってでたらめな電圧のスパイクを発するようになるのだが、時折ニューロンの全体がリズミカルに発火するなど、研究者をして『ところが、オルガノイドがもっと成熟していくと、ネグラエスの目には、なんらかの秩序が現れてくるように思えた』と語らせるほどの秩序らしき行動がみえてくることもあるという。

電極に載せた脳オルガノイドに何らかのパターンを持つ電気ショックを与えると、それが活性化しはじめる(『入力されたシグナルに応えて、オルガノイドがみずからのニューロンを使って一致するシグナルを生み出すのだ。』)など、何かを学習する機能さえもある。それだけ聞くとそれもう何かが芽生えようとしてるやん! と言いたくなるが、脳オルガノイドのサイズはせいじ数ミリのもので大脳皮質を模倣したにすぎないので、さすがに意識やそれに類するものは生まれていないだろう。

しかし、研究を進めれば脳オルガノイドはもっと脳に近くなるのかもしれない。大脳皮質のオルガノイドができるのなら、網膜のオルガノイドを作って両者をつなぐことだってできるだろう。それを続けていった先、脳の反応がより人間に近くなっていったとしたら、どこからが生きていて、どこからが生きていないといえるのか? 当然そう簡単に答えが出る問題ではないが、手がかりは本書でいくつか紹介されていく。

そのうちのひとつは、シアトルのアレン脳科学研究所で所長を務めるクリストフ・コッホが語る、脳内の意識の状態を単一の数値で測るという発想だ。被験者の頭に磁石を付けて(一時的に脳波を妨げる)無害なパルスを送り込み、その反応で意識の程度を計測できるというのだ。覚醒したり夢をみている人の場合、パルスは複雑な経路で脳全体に広がるが、麻酔をかけられた人はもっと単純な反応を返す。同じことを脳オルガノイドでもできるかもしれない。その場合、脳オルガノイドを作る際はその計測の数値が、一定の値を超えないようにしよう──などの取り決めが求められるだろう。

トンデモな生命の定義や失敗事例たち

生命の定義や起源をめぐる歴史には、輝かしい発見だけでなく、数々のトンデモな定義・失敗も含まれている。本書も、1900年代初頭に活躍した物理学者バークのエピソードで始まっている。彼は塩や肉汁が含まれたスープを用意し、そこにラジウムを入れたらまるで生物のように増え、変化するもの(レディオープと名付けられた)が生まれたといい、これこそが生命の起源だったかもとまで吹聴してみせた。

当時これは大きなニュースになり、ラジウムは生命の秘密を暴いたのか? など大げさにかきたてるメディアも出て、バークは一躍時の人となったが、でたらめにすぎないのですぐに否定的な研究報告が続いて失墜していった。これは生命定義・起源の探求における数ある失敗事例の一つにすぎないが、誰もが納得する生命誕生の過程と定義が明らかになっていない以上、レディオープに類する事件は現代に至っても発生するだろう。

本書のラストで扱われているのも、単純な化学物質の組み合わせで生命を作ることができると主張する異端の化学者クローニンのエピソードで、この章は『彼の生けるしずくの群れを称えることになるか、レディオープがまたひとりの科学者に一杯食わせた結果を目にすることになるかはわからないが。』と若干懐疑的に締めくくられている。

おわりに

脳死は死だという医師もいれば、心臓が鼓動を続けていれば死ではないと語る医師も、視床下部が働いていれば脳死ではないという医師もいて、脳死の定義も揺れている。エンケラドゥスに地球外生命を探索する研究者は、生命の定義はあえてもたないようにしていると言い、『私は、系から生命を取り去っても有機化学でできることに本当に驚き、感銘を受けています。』と語っている。医者、法学者、脳科学研究者、宇宙生物学者など、みなそれぞれの領域で「生命の定義」と格闘しているのが、本書を読むとよくわかる。

生命の定義そのたった一つの明確な答えを教えてくれるわけではないが、本書を読めば生命と非生命の境界線について、より明確にイメージができるようになるはずだ。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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『決定版-HONZが選んだノンフィクション』発売されました!