2022年度の新聞・通信社における女性記者の割合は男性の4分の1弱である(一般社団法人日本新聞協会調べ)。放送業界は多少マシな気もするが、それでもメディアが圧倒的に男性中心であることは変わらない。現代ですらそんな体たらくなのだから、戦前なんて推して知るべし。女性記者(当時は「婦人記者」といった)は各社片手で数えられるほどしかいなかった。
婦人記者という新たな職業が生まれたのは、明治20年代だという。女性読者の増加に伴い、女性向けの記事が求められ、東京や大阪の有力新聞が女性を採用するようになった。
とはいえ、のっけから婦人記者が活躍できたわけではない。女性向けの記事といっても、アイロンのかけ方、シミの抜き方といった家政記事か、政治家や実業家のお宅に赴き、奥様方に普段の生活や子どもの教育法などについてインタビューする名流婦人訪問記などがメインだった。
「号外に 関係のない 婦人記者」と当時の川柳にあるように、男性記者が天下国家を語り、スクープ合戦に明け暮れる一方、婦人記者は、ニュース報道の現場で云うところの「ひまネタ」に追いやられていたのだ。
ところが、そんな風潮に風穴を開けた婦人記者がいた。彼女たちの武器は「化け込み」である。「化け込み」とはいわゆる潜入取材のこと。変装してさまざまな場所に潜り込み内情をすっぱ抜く。そこで見聞きした内容を赤裸々に記事にする。婦人記者によるこうした変装潜入ルポは大当たりし、新聞の売り上げを倍増させた。
本書は新聞黎明期に体を張って活躍した婦人記者を取り上げた一冊である。彼女たちの活躍ぶりは痛快だが、一方で、化け込みに活路を見出さざるを得なかった当時の女性記者の立場についても思いを馳せずにはいられない。
婦人記者による「化け込み」記事が初めて登場したのは、1907(明治40)年10月18日、大阪時事新報の朝刊である。輸入雑貨を扱う行商人に化け、上流家庭の家庭に潜入する内容だった。この記事が人気シリーズ「婦人行商記 中京(なごや)の家庭」の記念すべき幕開けとなった。
執筆者は下山京子。彼女が化け込み婦人記者第一号である。写真をみると、切れ長の目に口元の引き締まった、いかにも仕事ができそうな顔つきをしている。入社して1年半後、フランスの雑誌に婦人記者が花売りに化け込んだ記事が出ていたと聞きつけ、編集長に化け込み企画を直談判して連載がスタートしたという。
そもそも下山京子以前に潜入ルポはなかったのだろうか。実は男性記者によるものはあった。ただし、それは婦人記者の化け込み記事とはずいぶん毛色の違ったものだった。
男たちが手がけたのは、都市の下層をレポートするスラムルポである。嚆矢は1890(明治23)年、日刊紙「日本」にルポを発表した桜田文吾。明治20年代から30年代は日清日露戦争の戦間期で、日本の産業革命期にあたる上、コメの凶作による社会不安も重なり、社会的弱者がクローズアップされた時代だった。桜田のほか、松原岩五郎や横山源之助といったジャーナリストも貧民窟に潜り込み、都市下層民の悲惨な暮らしぶりを伝えた。
これに対し、婦人記者が化け込みを始めたのは、先にも述べたように1907(明治40)年以降のことである。男たちのスラムルポが弱者の窮状を訴えるものだったのに比べ、婦人記者の化け込みはどちらかといえばエンタメ要素が強かった。ただ、だからといって彼女たちの書いた記事に価値がないということにはならない。
面白いのは、著者が下山京子の「婦人行商日記 中京の家庭」を、婦人記者の正道とされた名流婦人訪問記のいわば「B面」(裏面)に位置づけていることだ。おつに澄まして良妻賢母ぶりをアピールする名流婦人も、裏では行商人に嫌味を言ったり、使用人に嫌われていたりする。よそゆき顔の訪問記の裏にある本音を描くところに化け込み記事の面白さがあった。
しかも時の波に洗われ、覗き見趣味の扇情性も削ぎ落とされた今となっては、むしろ明治末期の名古屋の上流家庭の貴重な生活記録となっていると著者は指摘する。きめ細かい観察に基づく描写であるがゆえに、時を経るほどにかえって資料的な価値が高まった。まさに「神は細部に宿る」というわけだ。
だが、当の婦人記者たちの苦労は並大抵のものではなかった。彼女たちは職場で激しい嫌がらせを受けた。背中に張り紙をされる、着物の袂にマッチの擦り殼を入れられる、帯のお太鼓に原稿用紙を押し込まれる、聞こえよがしに猥談をされる。大阪朝日新聞の婦人記者にいたっては、身内のはずの「天声人語」に嫌味を書かれる始末。ホモソーシャルもここに極まれりである。
だが、彼女たちはけっしてやられっ放しだったわけではない。本書には下山京子の他に、3人の女性が登場する。「稀代の問題児、中平文子」、「闘う知性、北村兼子」、「S.O.Sの女、小川好子」と銘打たれた3名は、いずれもキャラが立ちまくっている。個人的オススメは中平文子。冗談みたいに波乱に富んだ人生を歩んでいる(別れ話のもつれから男に撃たれ、銃弾を歯で跳ね返したりする!)。
いじめに耐えかね悔し涙を流すこともあるけれど、彼女たちは男たちを振り回し大いに翻弄した。嫌味を言われれば皮肉で返し、卑怯なふるまいには暴露で報いた。「男は金を稼ぐ機械。機械は壊れれば修理する。修理がきかなければ新しいのにとりかえなければならない」とは中平文子の言葉だが、なんとも痛快である。
化け込み記事が確認できるのは、1937(昭和11)年5月の「記者の労働体験記 俄か仕込みの店員に化けて百貨店の売り場に働く」が最後だという。この年に日中戦争が始まり、翌年には国家総動員法が成立した。時勢が風雲急を告げる中で、化け込み記事も姿を消していった。
婦人記者による化け込み記事は、わずか30年ほどしか続かなかった。それは時代の徒花だったのだろうか。著者はそうでないと指摘する。化け込みは商業化に舵を切った当時の新聞になくてはならない企画だったし、また、危険を顧みず潜入取材を試みる婦人記者に憧れ、後に続こうとする女性たちが生まれた。
本書には番外編として「化け込み記事からみる職業図鑑」もおさめられている。中には「電話消毒婦」のような見慣れない職業もある。文字通り各家庭を訪問し電話の送信口を消毒して回る仕事だ。島田髷に髪を結い袴姿で消毒薬を入れたバスケットを持って歩く姿は、モダンガールの最先端として羨望の的だったという。
こうした今では姿を消した職業を眺めていると、時代の変遷を感じずにはいられない。だが、ふと恐ろしい事実に気づく。時代は変われど、男性中心のシステムだけはしぶとく生き残っているではないか。
多様性の重視が叫ばれて久しいが、その先頭で旗を振るメディア自身が男社会というのは冗談にもならない。著者は本書に登場する4人の婦人記者のようなはみだしタイプの重要性を強調する。わずかな期間ではあったが、確かに彼女たちの化け込み記事は新聞に新しい風を吹かせた。
型破りな女性記者たちが八面六臂の活躍をみせる紙面はどんなものだろう。記事は物議を醸し、世論を激しく二分し、男性幹部たちは各所への説明や釈明に追われるかもしれない。だが今のような代わり映えのしない紙面より、よっぽどそちらのほうが面白そうだ。まず隗より始めよ。新聞が変わるヒントは、案外本書が掘り起こした化け込み企画のように、足下の歴史にあるのかもしれない。