本書は魅力的な「問い」からはじまる。
若きピッツァ職人を取材していた時のこと。著者は職人の言葉にちょっとしたショックを受けた。
「僕、高校に行っていないんですよ。十六の時にナポリピッツァを食べて感動して、十七から東京のピッツェリアで働いて、十八でナポリに行ったので」
学校に毎日通うのが当たり前だった者からすれば疑問に思う。高校に行けない事情があったわけではなく、本人いわく「いたって普通の学生」だったという。それが「ピッツァを食べた感動」ひとつで、人生の方向を決めるなんてことがあるのだろうか。一方で、清々しさもおぼえていた。それは、「学校に行かない選択肢だってある」という発見がもたらした、視界が開けたような感覚だったのかもしれない。
ピッツァ職人の名は、中村拓巳。世界大会で上位入賞するほどの腕前を持つ、1985年生まれのこの若者こそが、本書の主人公である。
未成年で、しかもアジア系の男子がひとりイタリアに渡って危険な目に遭わなかったのだろうか。そんな疑問を笑って否定しつつ、中村はこう言った。
「それよりもナポリには、教わったことのほうがたくさんあります」
どうやらナポリピッツァには、ひとり青年の人生を変えるほどの力があるらしい。その魔法のような力とは何なのか。これが本書の「問い」だ。
初めてナポリピッツァを食べた日のことはよくおぼえている。
1995年の初夏、この年は大きな事件の取材で5月までほとんど休めず、ようやくとれた休みだった。せっかくだからうまいものでも食べたいと食通の友人に相談すると、評判の店があるという。店の中は「サヴォイ」といった。
その店はおよそ料理店らしくなかった。カウンターに立つTシャツ姿の男性は料理人というよりミュージシャンを思わせる。フライパンや鍋の代わりに、目の前では、黒々とした鉄製の釜が異様な存在感を放っていた。
戸惑い気味に座っていると、男性が手を動かし始めた。途端に目を奪われた。丸い生地を両手で器用に伸ばしていく。長い柄のついたへら(パーラ)に生地を載せ、赤々と薪が燃える釜に入れると、2分もたたないうちに取り出した。
出てきたピッツァは、縁がこんもり盛り上がった見慣れない形をしていた。恐る恐る口にして驚いた。こんがりと焼けた縁は、かじりつくとやわらかい。ニンニクのきいた濃厚なトマトソースにオレガノの個性的な香りがアクセントになっている。とんでもなく美味しい!夢中で平らげ、もう1枚別のピッツァを頼んだ。もっともメニューは「マリナーラ」と「マルゲリータ」の2種類しかなかったのだが。
本書によれば、1995年は日本のナポリピッツァ元年だという。4月にそろって中目黒にオープンした「サルヴァトーレ」と「サヴォイ」がブームの嚆矢となった。それまで、PIZZAは「ピザ」と読むのが一般的で、そもそもアメリカの食べものだと思われていたのが、2店の登場によって「ピッツァ」というまったく別の食べものがあることをみんな知ってしまったのだ。雑誌『BRUTUS』 が特集を組み、ナポリのピッツァ協会が定める「真のナポリピッツァ」の10箇条を紹介したこともブームに拍車をかけた。
ピッツァ職人を志してナポリを目指す日本人も増えた。だが、コネが物を言うイタリアでも保守的な南のナポリは筋金入りのコネ社会である。よほどのツテがなければ、外国人を雇う店などない。しかもピッツァは彼らのソウルフードだ。そもそも日本人にピッツァが焼けるなんて思われてもいない。本書はこうした壁を自力で乗り越えてきた職人たちにインタビューを重ね、ナポリピッツァという異文化との出会いを活き活きと描き出す。
大坪善久というピッツァ職人がいる。中村がナポリ行きを決意するきっかけとなった人物だ。ある職場で一緒に働くうちに、中村はすっかり大坪に感化され、ナポリ行きを決めた。1972年生まれの大坪は、若い頃旅に明け暮れていて、22歳の旅の最終地点でたどり着いたのがナポリだった。この時、大坪の心を捉えたのは、ピッツァそのものよりも、むしろピッツァを作る「人間」のほうだったという。
ある日、休憩中に談笑するピッツァ職人たちを見かけた。Tシャツからむき出しの腕はタトゥーだらけ。目つきも鋭く「いかにも悪そう」な風貌をしている。ところが、そんな彼らが店に戻ると、「ギターのカッティングみたいなリズム」の躍動感で仕事に打ち込む。オンとオフに緩急をつけ、人生の瞬間、瞬間を楽しむ彼らに、大坪は「なんて自由な人たちだろう」と魅せられた。
この「自由」という言葉は、本書のキーワードだ。中村も、日本にはなくてナポリにあったものはなんだったのかという問いに、「自由」と答えている。大坪と中村に自由とは何かを教えてくれたのがナポリだった。2人の修行時代を描いたパートは本書の白眉だ。
特に中村の修行の日々は、青春の眩しさに溢れている。ナポリでもヤバい地域にある店に雇ってもらったのを皮切りに、経験を積み、フォルナイオ(焼き専門の職人)になると、平日夜は1人で200~300枚、週末は400〜500枚ものピッツァを焼いた。
中村が「ナポリのお父さん」と呼ぶ師匠は、まず「やってみろ」と言い、次に「考えろ」と言った。釜の内部の温度は、薪の炎よる熱の対流と、石材が蓄えた輻射熱、床面の伝導熱によって、複雑なパズルのようになっている。熱の変化を読みながら、奥・手前・左・右・高・低と3Dで生地を動かさなければならない。中村によれば、どんな生地でも、ある温度にくると突然「化ける」瞬間があるという。こうした極意を中村は頭と体をフル動員して会得していった。
厳しい修行の話が「オン」なら、仕事を終えたあとは「オフ」の時間だ。最年少の中村は、兄貴たちのスクーターの後ろに乗せてもらい、あちこち連れて行ってもらった。体はクタクタだったが気にならない。日本の若者の遊びを知らずにイタリアに来た中村にとって、明け方まで仲間と他愛もない話をして笑い転げる時間は最高に楽しかった。
鶴見俊輔は、神話の時代に流れていた時間は現代とは違うと考え、それと同じ時間が幼い子どもの中にも流れているとして、これを「神話的時間」と呼んだ。鶴見に倣って、中村の修行時代も「神話的時間」と呼びたくなってしまう。全身全霊で修行に打ち込んだ日々は、おそらくもう二度と経験できない濃密な時間である。単調な人生とは対極にある豊かな時間がそこにはあった。
ほとんどの人にとって、10代なんてまだ何がやりたいのかわからない。だからこそ濃く充実した日々を送る中村が特別な存在にみえてしまう。だが著者の取材者としての実感はそうではない。
取材を重ねるうちに、著者は職人たちのほとんどに共通する点があると気づく。はじめから将来を見通せた者などいない。ただ、その時々の自分の心の微かな振れを見逃さず、「こっちなのかな」と一歩を踏み出した点が共通していた。その小さな一歩こそが、ナポリピッツアとの運命的な出合いにつながっていたのだ。
「出合いとは、はじめから運命的な顔をしているわけじゃない。
逆に言えば、人は誰でも特別になれる、ということだ」
著者のこの言葉は、読者への励ましとなるだろう。
なにか劇的な出合いが人を変えるのではない。自分の心に正直に歩みを進めるうちに、特別な存在へと変わっていくのだ。そしてその機会は、誰にでも開かれている。
それにしても、ピッツァ職人はなんと素晴らしい職業だろう。美味しいピッツァを食べて笑顔にならない人なんていない。熱々のピッツァにかぶりつく瞬間、私たちは人生を謳歌しているのだ。そう、ナポリの人々と同じように。
Godiamoci la vita! (人生を楽しもう!)
そんな声が聞こえてくるような一冊である。
あぁ、うまいナポリピッツァが食べたくてたまらない!