膨大な死傷者を出しつつウクライナで存在感を示したPMC(民間軍事会社)ワグネル。プーチンの秘密の軍隊ともいわれ、2014年のウクライナ紛争やシリア内戦でも暗躍していたことが知られている。一方で2022年のウクライナ侵攻以前はその存在をロシア政府から公式に認められていなかった。それもそのはずで、ロシアでは法律により傭兵家業が禁止されているはずなのだ。著者マラート・ガビドゥリンはこの秘密の軍隊で傭兵として働いていた男だ。本書はワグネルで傭兵として戦った男の回想録であり、戦記である。話の中心はシリア内戦がしめている。PMCワグネルについてはいまだに謎が多く残されており、ジャーナリストによる調査報道などの出版が待たれるが、日本で手に入るPMCワグネルの書籍としては最も詳しくその内部事情がわかる1冊といって良いのではないだろうか。
一方でひとつ断っておかなければならないこともある。本書の記載がどこまで真実なのかについては疑問点もあるのだ。例えばワグネルがシリアで行った数々の戦争犯罪について、彼はその行為自体は認めつつも自身も含めて所属した部隊では、そのような行為はなかったとする。あくまで一部の残虐な奴らの「ヒューズが吹っ飛んだ」のでありワグネル全体の問題ではないと主張している。彼の認識ではあくまでワグネルは「善」の存在であり、大ロシアを破壊する考えに取り憑かれたアメリカの帝国主義と戦うことこそが自分の使命だと認識しているのだ。
一方でロシア軍が彼らを幽霊部隊として扱い、貧弱な装備しか支給しないまま最前線に送り込んだことに憤りを隠さない。死傷者が正式に記録されないために使い捨ての駒として利用される傭兵としての経験は壮絶でもある。例えばシリアでアメリカの支援するクルド部隊と戦闘になった際の出来事は強烈だ。クルド人部隊の支援爆撃を行おうとしたアメリカ側は敵がロシア部隊だと気づき、政治的配慮のためロシア軍側に「当該部隊はロシア軍か?」と確認の連絡を入れたのだが、ロシアの司令部はワグネルの存在を隠すために否定してしまう。このため、アメリカは容赦なく爆撃を加えマラートの部隊は多くの死傷者は出すことになる。彼自身も顔一面に大やけどを負う。
著者は今回のウクライナ侵攻には参加していない。むしろ反対の意を示しており「兄弟の国」を攻撃することは間違っている、というのが彼の主張だ。2014年にロシアが支援したルハンシク、ドネツクの分離独立派民兵の非道な振る舞いも非難しているし、アサド政権などの非道な独裁者を支援することに疑問を口にするなど、自国の戦略にたいして独自の主張も持っているようだ。しかし、彼はあくまでロシアの兵士であり、愛国心に富んだ元ロシア軍空挺部隊の将校でもある。彼は傭兵として祖国のために戦ったことに誇りを感じてもいるのだ。一見すると分裂した支離滅裂な思いを内に秘めた一人の男でもある。おそらくはロシア存亡の危機が訪れれば彼は再び銃を手に取り、国のために戦うであろうことは容易に想像できる。
本書のもう一つの特徴はロシア軍のエリート部隊である空挺部隊の元将校が記した回想録という点であろうか。記載のほとんどがシリア内戦でのイスラム国との戦闘に費やされているのだが、部隊が侵攻した場所や地名、戦闘の戦術的な意味、部隊運用の問題点などが将校というある程度の高位な視点から記述されている。例えば、彼の上官である「ラトニク」が各地の戦闘で見せた振る舞いや戦術的な知見などを解説しながら情報を的確に判断し慎重に行動する優れた指揮官と評している。ワグネルの中にはかなり素性が怪しく、能力に欠けた指揮官も紛れ込んでおり、こうした指揮官と比較しながら「ラトニク」がいかにプロに軍人かということを浮き彫りにしている。
他に興味深い点ではシリア軍の腐敗とていたらくだろうか。夜間灯火管制を守らず敵に位置を知られ砲撃を受ける。予定通りの作戦行動をとらないためにマラートたちの部隊が攻撃を行えないこともしばしば。将校は弾薬の積載量を減らしてでも豪華な食器やティーセットなどを戦場に運び込む。ISISの戦闘員を恐れ、ワグネルが陥落させた敵拠点をすぐに放棄して逃げてしまう、などと弱さを露呈している。一方で、自国の民間人に対しては威圧的で住居に押し入り略奪を繰り返すなど、かなり酷いものであったようだ。最もこの辺りは、今回のウクライナ侵攻でロシアの正規軍も似たような醜態をさらしているのだが。
パルミラ近郊の戦闘ではワグネルも苦戦を強いられ多くの犠牲者を出しているが、彼らの犠牲と功績は正式発表には記載されていない。シリア内戦で主力をなしたワグネルの功績、犠牲はロシア軍の顧問団に率いられたシリア軍の功績とされ、公式の記録に記されることはないという。ワグネルの戦功を後方にいて戦闘に加わらないロシア正規軍が受け取り、彼らは勲章を授与され、マスコミのインタビューに答え本国では英雄ともてはやされる。不条理極まりないが、それでも著者はワグネルの兵士であることに誇りを感じ、感謝すらしているという。
彼がワグネルにに感謝する理由はその経歴を見ればわかる。子供の頃から祖国に尽くす兵士に憧れ、空挺部隊の将校となるも上官との人間関係などで退官。その後はマフィアとの抗争に関わり、マフィアのボスを殺害してしまったため、犯罪歴が付き軍へ復帰することができなくなってしまう。そんなマラートに再び兵士として祖国に貢献できる道を与えたのがワグネルであったからだ。しかし、彼は祖国がワグネル兵士に見せた負の部分、自国民を平気で害する独裁者への支援やウクライナ侵攻などに疑問を持つ。そしてワグネルを去った今、祖国のために裏切り者の汚名を受ける覚悟でワグネルの内情を記したという。そこには祖国のために戦った男の誇りと顕示欲、一方では国により使い捨てにされていく傭兵の怨嗟の声が複雑に絡み合っている。戦争犯罪などで国際的に非難されていた組織に属していた男の著作である。どのように受け取るかは意見が別れる類の本であると思う。しかし、だからこそ読む価値のある一冊だと思う。