身近な人が豹変してしまうのを見るほど辛いことはない。家族が認知症になったとか、カルトに入信したとか、そんなハードな話なら聞いたこともあるが、著者の場合はいささか変わっている。父親が「ネット右翼」になってしまったのだ。
父親は令和元年(2019年)、改元の4日後にこの世を去った。77歳だった。晩年の父親はネトウヨ的な言説に染まっていたという。近隣諸国や左翼、生活保護受給者などをさげすむヘイトスラングを臆面もなく口にする。病院などで少し声の大きな集団や服装に違和感のある人々がいると、「あれは中国人だな」とつぶやく。あるいはテレビを観ながらリベラル政党の女性議員に「女だてらに」「しょせん女の脳は」などと口汚い言葉を浴びせる。
片や排外思想に染まり、弱者に対する偏向発言をためらうことなく口にする父親。片や息子は、女性や若者、子どもの貧困問題を追い続けてきたルポライター。価値観が合うわけがない。このため、父を看取るまでの数年間、著者は父親に対して心を閉ざし続けた。残り少ない家族の時間を、言い争いや険悪な雰囲気で壊したくないという思いもあった。そして最期の瞬間まで、父親と本音で語らうことのないまま、見送ることになってしまった。
だが、息を引き取った父親を前に、胸の奥では疑問が渦巻いていた。
「本当に、本当に、これでよかったのだろうか?」
なぜ父はネット右翼になってしまったのか。著者は父親について調べ始める。家族や親戚、父を知る友人に疑問をぶつけ、これまで知らなかった父親のエピソードを聞き出していった。父親が何者だったのかを知ろうとする旅は、2年半以上に及んだ。本書はその旅の記録である。
世間では無名の人物の人生を読まされて何が面白いのかと思う人もいるかもしれない。だがそれは早計というものだ。本書はきわめて今日的な問題を乗り越えるための大きなヒントを与えてくれる。その問題とは「分断」である。
そもそも父親はネット右翼とは程遠い人物だった。自宅にはジャンルを選ばぬ多様な蔵書があったし、「わからないことをそのままにしない」「多くの人が言う『当たり前』を鵜呑みしにない」という家訓は、今も著者の根っこにある。
父親が育った環境からも、弱者を貶める発言をするような要素はみられない。戦中生まれで、戦後は名古屋の戦災復興住宅で暮らした。当時、戦災孤児に施しをする祖母を、父親はむしろ誇りに思っていたという。大学で知り合った母親とは恋愛結婚だったし、結婚後も自宅で英語塾を開く母親を応援していた。このあたりも旧弊な夫婦像にこだわる保守派とはかなり距離がある。
仕事ぶりは典型的な昭和のサラリーマンだったが、仕事一辺倒ではなかった。好奇心旺盛で、いろいろな国の言語を学ぶのが好きだった。ハングルを勉強しては「合理的で面白い」と感心し、退職後は中国・雲南省の昆明に半年間の語学留学もした。男子厨房に入ることを厭わない料理好きで、家の食事づくりはもちろん、料理教室やパソコン教室なども開くなど、地域活動にも熱心に取り組んでいた。そんな父親がなぜ変わってしまったのか……。
検証は、墓を掘り返すような作業から始まった。父親のノートパソコンを開いたのだ。そこには嫌韓嫌中のコンテンツや保守系まとめサイトの数々がブラウザのブックマークを埋めていた。著者は当初、「父は何者かに利用され、変えられたのだ」と考えていた。父親の言動から「古き良きニッポン」に対する喪失感や慕情を感じていた著者は、そうした感情をビジネス右翼に利用されたのではないかと仮説を立てたのだ。
ところが、検証作業を続けるうちに、この手の仮説は根底から崩れていく。
人間は複雑である。もとより、ひとりの人間に図式的な理解を当てはめるのには無理がある。必ずそこからこぼれ落ちる要素が出てきてしまうからだ。
身近な人の話に丁寧に耳を傾け、これまで知らなかった父の姿を知るたびに、著者自身の父の記憶と擦りあわせ、内省を重ねていった。そのプロセスはぜひ本書を読んでほしい。著者の中で父親像が変容していくプロセスこそが、本書の最大の読みどころだからだ。
検証を重ねる中で、著者は大切なことに気づく。父親をネット右翼にしたのは、実は著者自身でもあったということに思い至るのである。
父親が偏向した要因を探すかたわら、著者の目は自らの内側にも向けられていった。そこには、父と同じようにバイアスのかかった偏見があった。自分だけを正しい側に置き、父親を一方的に責めていたことに著者は気づくのである。
分断など不要だったし、それを解消することだって可能だった。
だが、気がついた時には、父はもうこの世にいない。なんと残酷なのだろう。人はなぜいつも手遅れになってから大切なことに気づくのか。本書には取り返しのつかない著者自身の後悔も詰まっている。
人はそう簡単に一色には染まらない。それは我が身を振り返ればわかることだ。くだらない妄想に現を抜かすこともあれば、柄にもなく高尚なことを考える時もある。バカをしでかすこともあれば、正義感に駆られて行動することだってある。誰しも自己矛盾の塊だ。それが人間である。
様々な分断の主因は、「相手の等身大の像を見失うこと」だと著者は述べる。その溝を埋めるには、相手の等身大の像を取り戻さなければならない。相手も自分と変わらない矛盾を抱えたひとりの人間だということさえ知っていれば、そもそも分断が生じる余地などないはずだ。
著者は道端に咲く草花を愛するような人物である。父親が逝った後、遺されたガラケーの写真フォルダには、ハナニラやハルジオンなどの草花の画像が並んでいたという。著者のスマホの中身と比較したら、同一人物のフォルダと思われるほどそっくりだった。「父はレンズの向こうに僕と同じ景色を見ていた」という著者の言葉が胸に迫る。
分断とは、相手を見失ったところに立ち現れる幻のようなものなのかもしれない。