この本は面白かった。専門知と世間知の間で葛藤する臨床心理士の「現代版赤ひげ先生」が、自慢のヒゲを撫でながら捻りだした一冊だ。わかりやすい言葉、アカデミズムの知識、日常生活人としての思い。その三者が融合し、骨太な大変価値ある本にしあがっている。
タイトルをみればわかるとおり、本書のテーマは情報の交換だ。人類が高度な文明を持つ万物の霊長になり得たのは、卓越した情報交換術があったからだ。生き残るために必要な情報の受け渡しもあったのだろうが、互いに聞き合うことで癒され孤立することなく生きていくことができた。そして、そこにコミュニティが発展したのだ。
ところが現代では分断が進み「聞く」の不全が社会を覆っているというのが、本書の問題提起である。一例をあげる。古い友人と再会して「またみんなで飲みたいね」という話が出ても、一方は早速他の友人に声をかけようとするが、もう一方はコロナがおさまってからにしようと言い出すような時だ。
皆さんも何度か経験したことがあると思うが、この対立は大抵平行線で終わる。むしろ話せば話すほど言葉にトゲが出てきて、互いに嫌な気分になることのほうが多いくらいだ。対立が生まれたときは「対話が必要だ」と言われることが多いから、それに従って「話せばわかるに違いない」とチャレンジを重ねても逆にエキサイトする始末だ。
こんな時に「聞く」の不全が起きていると著者はいう。確かにそうかもしれない。自分が飲み会を企画したい側だった時、現在の感染状況を示して「今なら平気」と相手を説得しようとする。相手は新しい変異株が出てきているので「まだ油断できない」というかもしれない。もうその時点で、互いに相手の話を聞けなくなっている。
もしかしたら慎重論を主張する相手は持病がある高齢のお母さんと同居しているのかもしれない。翻って自分は、コロナによる行動制限で勤務先の会社がダメージを受け、一日も早く通常の生活に戻りたいと願っているのかもしれない。そうすると互いが理論構築のために集める情報は、もとより偏ってしまうのだ。
憲法改正、歴史認識、子育て給付金、皇族の結婚…社会には対立を迫るイシューが無数にある。それについて語りだしたら正解が出ることはなく、ただトゲトゲヒリヒリするだけだ。職場では全社的な施策の是非、家庭では子どもの教育問題など、身の回りにもこんなイシューが山ほどあるだろう。この時に「聞く技術 聞いてもらう技術」が必要になる。
「聞く」の不全が起きている現場の事しか私はまだ書いていない。だから何故そんな技術が必要か、皆様にはまだわからないと思う。そもそも対立の当事者は「相手側の背景にある切実な事情」を「聞く」余裕がないのが問題なのではないか。それなのになぜ「聞く技術」にこだわるのか。
著者は最終章で視点を広げて「誰が聞くのか」について述べている。ここがまさに私のお気に入りの「赤ひげ」ポイントである。「誰が聞くのか」という問いの設定。皆さま是非、居住まいを糺して長年の臨床経験に裏打ちされた著者の答えに耳を澄ましてもらいたい。
その答えは、第三者に「聞いてもらう」ことだ。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉がある。対立する相手を冷静に見られなくなった時、自分の心には幽霊が棲んでいる。しかし「ちょっと聞いてよ」といって誰かにその相手のことを話した時点で、それは実態を伴った「枯れ尾花」として認識できるようになるのだ。
専門知で心の病を分類するだけのドクターでは、こんな処方箋は書けないのではないか。本書の中で著者は「専門家は普通の人が互いにケアすることを助けるために存在する」と言い切っている。そして、「ほとんどの場合、クライエントの心に回復をもたらしているのは、身近な人たち」といい、ケアの主役が民間セクターにあることを指摘する。
あなたは本書の問題提起に対して、今求められている「聞く技術 聞いてもらう」技術がどんなものなのか、おぼろげながらイメージできたのではないだろうか。第三者として相手に話を聞いてもらう恩恵を受けながら生き、時には同じく第三者として話を聞く立場にもなれる技術である。思えば、昔はそんな社会だったような気もしてしまう。
著者の述懐で印象的だったのは、カウンセリングについて「聞くだけで治るんですか?」と問われると、若い頃は「いろいろ専門的なことをやってるんですよ」と答えていたそうだが、最近は「案外、ちからがあるんですよ」と答えるようになったというくだりである。私も50年以上生きてきたので、その力は身をもって経験してきた。
そんな理論だけでなく、すぐに実践できる小手先の「聞く技術 聞いてもらう技術」が列挙されているのが本書の特徴だ。専門知をもった先生が世間まで降りてきてくれたみたいで、私などは「あぁ、ありがたや~」と両手を合わせてしまいたくなった。詳しい内容は本書に譲るとして少しだけ紹介してみたい。
聞く技術小手先編⇒眉毛にしゃべらせよう/沈黙に強くなろう/7色の相槌/奥義オウム返し/また会おう・・・
聞いてもらう技術小手先編⇒一緒に帰ろう/ZOOMで最後まで残ろう/単純作業を一緒にしよう/ワケありげな顔をしよう/遅刻して締切を破ろう・・・
「聞いてもらう技術」なんて初耳だが、要するに相手に声をかけてもらうための技術だ。時にはわざと心配してもらっちゃったりすることもOKなのだ。逆に自分に余裕があるときは「最近あいつヤバそうだな」と感じる人に声をかければいい。本書は「聞く」と「聞いてもらう」の循環の力をあらためて認識させてくれる良書だ。