徒手空拳、という言葉がある。手に何も持たず、身ひとつで何かにのぞむことを指す。
漫才は文字どおり徒手空拳の芸だ。サンパチマイクの前で、全身を客に晒し、しゃべりの技術だけで勝負する。実にシンプルな芸だ。シンプルなだけに、客にも違いはすぐにわかってしまう。上手いか下手か。おもしろいかおもしろくないか。
客ウケが悪いと、芸人の表情はみるみる青ざめていく。脂汗が流れ出す。だが途中でやめるわけにはいかない。繰り出す言葉はことごとく空回りし、もはや客は誰も笑っていない。これではまるで公開処刑である。だからといってやめるわけにはいかない……。「笑い」とはなんと残酷なのだろう。
刊行を待ち焦がれていた一冊をようやく手にした。本書は2021年秋から2022年春まで、全22回にわたって週刊文春に連載された「笑い神 M-1、その純情と狂気」をまとめたものだ。とてつもない熱量の連載で、毎週貪るように読んだ。文春砲よりも連載に夢中になったのは、『嫌われた監督』以来かもしれない。書籍化にあたり、新たな取材による大幅な加筆修正が施されているので、連載を熱心に読んだ人ほど、むしろ新鮮な気持ちで本書を楽しめるはずだ。
現在の漫才ブームの隆盛にM-1グランプリが多大な貢献をしたことは広く知られている。M-1とは、漫才日本一を決めるコンテストのことだ。吉本興業が朝日放送とタッグを組んで2001年に始めたM-1は、2010年にいったん幕を下ろすが、2015年に復活して現在に至る。通算18回目となる2022年大会には、プロアマ問わず、7261組がエントリーしたという。名実ともに日本最大のお笑いイベントである。
著者が漫才の魅力に目覚めたのは、週刊誌でオール阪神・巨人のオール巨人の連載の取材と構成を担当したのがきっかけだった。そして巨人が審査員を務めていたM-1グランプリの決勝をスタジオで観覧するうちに、漫才にどっぷり浸かるようになっていく。M-1に青春を賭けた芸人たちの姿に、たまらなく惹かれたからだ。漫才とは何か。笑いとは何か。その核心を、いつしか著者は覗き見たくなっていた。
著者が本書の中心に据えたのは、笑い飯である。
「M-1で勝つよりも、まず、笑い飯に認めて欲しかった」
取材した多くの芸人がことごとくそう口にしたためだ。
笑い飯はM-1が生んだ最大のスターである。2000年にコンビを結成した笑い飯は2002年から2010年まで9年連続でM-1の決勝ラウンドに進出した。そして、出場資格の関係でラストチャンスとなった2010年に悲願の優勝を遂げた。M-1の最初の10年は笑い飯の歴史だったといっても過言ではない。
笑い飯はともに1974年生まれ。短髪で尖った鼻の哲夫と、長髪でギョロ目の西田幸治のコンビである。一般的に漫才コンビはボケとツッコミに別れるが、笑い飯は「ダブルボケ」と称されるように、互いにボケを繰り出す。お互いムキになってボケ合ううちに、どんどん笑いが増幅されていく。あるジャンルで画期的な才能が現れた時に、以前/以後と表現されることがあるが、笑い飯以前にこういうスタイルはなかった。
元アジアンの馬場園梓は、笑い飯を「神」と表現する。普通、芸人はおもしろくなるために徐々に階段を上がっていくものだが、笑い飯は最初から二人とも完璧だったという。だから逆に、一般の人にもわかりやすいよう、こちらに下りてこなければならない。もう、そこからして決定的に違うのだという。
何かをつくる際、「客」と「自分」という二つの基準が存在する。ショービジネスでは「客」のニーズに応えるのが鉄則だが、ごく稀に「自分」を貫き通せる才能が現れることがある。そして真の実力を備えた者は、やがて客も振り向かせることができる。これこそが創造者に他ならない。芸人の世界では、それはダウンタウンであり、笑い飯であると著者は言う。
笑い飯の創造の現場は壮絶である。翌日に全国ツアーの初日が迫っているにもかかわらず、ネタができていない。しかも新ネタを二本用意するという。笑い飯のネタは、おおまかな設定をまず哲夫が考える。それに対して、西田が興味を示すか否かが最初にして最大の関門だという。とはいえ、ネタになりそうなところはあらかた掘り尽くしてしまっている。西田がNOであれば、沈黙が支配する中、ひたすら何時間も考え続けなければならない。まるでカラカラに乾いたタオルを絞り続けるかのように。
哲夫が考える設定の条件は、「みんながわかって、で、誰も漫才に取り入れていないこと」だという。みんながわかるといっても、流行り物には決して手は出さない。こうした高いハードルをクリアして、『奈良県立歴史民俗博物館』のような傑作が生まれた。確かに奈良県立歴史民俗博物館はみんな知っている。だがそれが漫才になるなんて、笑い飯以外の誰が思いつくだろう。
深夜2時、ふたりが籠もる会議室から、哲夫の笑い声が響いてくる。ネタが「産声」をあげた瞬間だ。待っていたマネージャーの体に熱いものが走る。読んでいるこちらの胸も熱くなる。「笑い」を創造するとは、なんと大変な作業なのか。
笑い飯はM-1の方向性まで決めてしまった。「完成」よりも「新しさ」が重視されるようになったのだ。マヂカルラブリーやランジャタイのように「これは漫才と呼べるのか」と論争を引き起こすようなコンビは、笑い飯がいたからこそ勝ち残れるようになったといえる。
千鳥のように笑い飯の後に続く天才も現れた。千鳥の大悟は、よくこんな話をするという。芸人にとってひとつの大きな分岐点は、ウケるとわかっているものに手を出すか出さないか。手を出さずに、それでもなおウケることこそ芸人たるものの生きる道だと。これは笑い飯のスタンスにも通じている。
笑い飯という巨大な才能を中心に据え、著者はM-1で笑い飯と競った芸人たちのドラマを描き出す。もっとも、このように笑いの舞台裏を可視化したのがそもそもはM-1だった。本番前に必死の形相でネタ合わせをする姿や、勝って泣き、敗北に打ちひしがれる姿を視聴者の目に晒すことで、番組は人気を博した。
だが昔気質の芸人からすれば、これは「あるまじき行為」に映るようだ。ケンドーコバヤシはそうした美学を持つ芸人のひとりである。彼は芸を論じることを嫌う。芸人は笑われてなんぼ、舞台裏など見せるべきではないということなのだろう。「中村さんのやっている行為が、一番寒いと思いますよ」と著者にもかみつく。
確かに「笑い」を論じるのは難しい。特にネタを解説したりするのは愚の骨頂、野暮の極みである。笑い飯に「鳥人(とりじん)」という独創的なネタがあるが、言葉で説明しても一ミリも面白さは伝わらない。だが映像で見れば、その凄さは一発でわかる。「語り得ないもの」は体験するしかないのだ。
だがそれもわかったうえで、言いたい。本書は「笑い」を描くことに十分に成功していると。著者は漫才に魅せられた芸人に焦点をあわせることで、「漫才とは何か。笑いとは何か」という困難な問いに、ひとつの答えを提示してみせた。
本書を通して浮かび上がってくるのは、「狂おしいまでの渇望」である。
漫才コンビの関係性は独特だ。楽屋にいても会話ひとつなく、目も合わさない。互いを鬱陶しく思っているコンビは珍しくない。だがその一方で、相方を強烈に求めてもいる。客よりもまず相方に笑ってほしい。相方に認めてほしいと切望している。人が人に焦がれるような思いを抱く。恋愛ですらここまでの渇望はないのではないか。
好きだけど嫌い。憎らしくてたまらないが、気になって仕方ない。人間は複雑極まりない矛盾した存在である。本書にはそんなむき出しの人間の姿が描かれている。著者はそれを「笑い」という題材をもとに見事なノンフィクションに昇華してみせた。笑い飯が漫才の新時代を切り開いたように、本書もまたノンフィクションというジャンルの可能性を押し拡げている。
書店で本書がタレント本のコーナーに置かれていたのが残念でならない。本書は今後、ノンフィクションの大きな賞を間違いなく受賞するだろう。いまからでも遅くはない。店頭で大々的に展開することをオススメしたい。本書を筆頭に「ノンフィクションの可能性」とでも銘打ってフェアをやってもいいかもしれない。「このテーマがノンフィクションになるの?」と驚くような作品はたくさんある。書店だって新たな可能性を切り開けるかもしれないのだ。