訃報はいつだって突然だ。著名人が亡くなると、生放送中のスタジオに報道の人間が原稿をもって駆け込んでくる。速報は一刻も早く放送するのが鉄則だが、そこに記された名前に驚き、思わず足が止まってしまうことがある。訃報にあらかじめ心の準備をしておくことなんてできない。誰かの死に慣れることはこの先もきっとないだろう。
山本文緒さんが亡くなったという報せも突然だった。
2021年10月13日、膵臓がんのため死去。58歳だった。
山本さんは前年、7年ぶりとなる長編小説『自転しながら公転する』を発表したばかりだった。地方のショッピングモールで働く32歳の女性を主人公にした同作はまぎれもない傑作だった。
NHKの『朝イチ』だったと思うが、軽井沢のご自宅で、キツツキが家の外壁に開けた穴をリポーターに見せたりしながらインタビューに答えていたのをおぼえている。その時の楽しそうな表情がとりわけ印象に残っているのは、山本さんの作家生活がけっして順調ではなかったことを読者のひとりとして知っていたからかもしれない。
2001年に『プラナリア』で直木賞を受賞した後、山本さんはうつ病を発症した。再婚した夫に支えられながら長い闘病生活を送り、やがて少しずつエッセーや短編を発表するようになった。『自転しながら公転する』は、ようやく読者に届けられた長編小説だった。この作品を読んだ誰もが山本文緒の完全復活を確信したはずだ。だから、亡くなったことが信じられなかった。
本書は、山本さんが最期の日々を記録した日記である。
膵臓がんと診断されたのは、2021年4月だった。その前には近所の総合病院で慢性胃炎と診断されていた。がんがわかった時点でステージは4b。腫瘍の位置が悪く手術はできず、既に転移もあり、残された手立ては抗がん剤治療しかなかった。だが抗がん剤治療は「地獄の苦しみ」だったという。「これでは、がんで死ぬよりも先に抗がん剤で死んでしまうかもしれない」。医師によれば、余命は4ヶ月。化学療法が効いたとしても9ヶ月だという。医師やカウンセラー、夫と話し合い、山本さんは抗がん剤をあきらめ、緩和ケアを選択した。
いきなり「余命4ヶ月」と言われてもピンとこなかった。だが、東京の病院にセカンドオピニオンを聞きに行った帰りの新幹線のホームで、「4ヶ月ってたった120日じゃん」と唐突に実感が湧いて、山本さんは涙が止まらなくなってしまう。余命が「たった120日」であることに気づいた後、なんとか120日以上生きることが目標となった。そしてできればもう一度、自分の本が出版されるのを目にしたいと思った。
一言で言えば、本書は「作家の闘病日記」ということになるだろう。なかには「闘病ものは悲しいから苦手」という人もいるかもしれない。たしかに病気や死にまつわる話には悲しみがつきまとう。だが、そうしたイメージだけで敬遠するのは実にもったいない。不謹慎を承知で言うが、本書はとても面白い。この日記が山本さんの死をもって終わることを、私たちはあらかじめ知っている。作中、病との闘いが描かれているであろうことも想像がつく。にもかかわらず、本書は読んでいて飽きないのだ。
それは山本さんがすぐれた目の持ち主だからかもしれない。自身の内側や周囲を見つめる視線がとても細やかなのだ。
初めての抗がん剤治療からしばらくして、髪がごっそり抜けてしまったことがあった。ショックを受けた山本さんは、洗面所に座り込んで狂ったように髪を抜く。髪は引っ張れば引っ張るほどいくらでも抜けた。だがその一方で、「人間の頭には驚くほど毛が生えていて、いくら抜いても傍目にはまだどこも脱毛しているようには見えない」と冷静に観察している山本さんがいる。
感情一辺倒ではなく、こうした細やかな描写が挟まれることで、その場面が、具体的な手触りを感じさせるクオリアとして立ち上がってくる。山本さんが生きた日々が、色彩や湿り気、匂いなどを帯びた、よりリアルなものとして読むものの胸に迫ってくるのだ。
どんなに深刻な事態に巻き込まれていても、山本さんは見つめることをやめない。時にはそれがユーモアの効果すら生む。ただごとでない寒気の発作に襲われ救急搬送された時は、奥歯をガチガチ鳴らしながら、「容態急変!」「救急搬送!」とエヴァンゲリオンのフォントで書かれた文字が頭の中を横切っていくのを眺めていたという。このくだりを読んで、頭の中でティンパニが鳴りはじめたのは、きっと僕だけではないだろう。
細やかな視線は、パートナーにも向けられる。夜中に手洗いに起きると、夫がリビングで居眠りをしていた。起こそうとしたが、山本さんは少し考えてそのままにしておくことにした。「もうすぐ妻が死ぬ」という現実から夫が解放されるのは寝ているときだけだと考えたからだ。わずか数行の文章から夫婦の情愛が伝わってくる。
すぐそこに人生の終わりが見える時、人は何を思うのか。
近所の神社で花火大会があり、山本さんは人生最後の打ち上げ花火を堪能する。浴衣を着た高校生ぐらいの女の子二人連れを見て、自分も若い時に浴衣を着て夏祭りに行った思い出があって良かったと思う。そしてこう書くのだ。「思い出は売るほどあり、悔いはない。悔いはないのに十分と言えないところが人間は矛盾してるなと思う」
「悔いはないのに十分とは言えない」。日常生活でこのような容易に解きほぐすことのできないこんがらがった気持ちに直面することはほとんどない。
それは親しい人との別れにもいえる。がんは、「お別れの準備期間があり過ぎるほどある病気」だと山本さんは言う。日記にも多くの友人との別れが綴られている。あえて楽しいことだけ話してお別れした人もいれば、お互い泣きながらさよならした人もいる。だが、別れの言葉は、どれだけ言っても言い足りない……。
山本さんはきれいごとを書かない作家だった。死を前にして作家は、混乱し、矛盾した胸の内をさらけ出す。その姿を目にしながら思う。人はいつか必ず死ぬ。必ず死ぬとわかっているのに、なぜ私たちは十分な準備をしておくことができないのだろう。
9月13日、待望の新刊『ばにらさま』が発売された。新しい本が出るのを山本さんは見届けることができた。だがこの時、医師からはそろそろ週単位で時間を見たほうがいいと言われていた。「週単位」という言葉を聞いた時、山本さんはすぐには飲み込めなかったが、夫は蒼白となり、「ごめん。本当に悪いんだけど、少しだけ飲みに行きたい」と出かけて行く。
がんを宣告されてからの暮らしは、夫とふたり、無人島に流されてしまったかのようだった。「あと数週間で夫は本島に帰り、自分はひとり無人島に残る時がもうすぐ来るのだ」と山本さんは思う。
終わりが近づいていた。それでも作家は、スマホの音声入力や、夫に助けてもらいながら書き続けた。
日記の最後の日付には、不思議なことが書かれている。この時、山本さんは誰の声を聞こうとしていたのだろう。
2021年10月13日10時37分、山本文緒さんは自宅で永眠された。
最期まで作家であり続けた人だった。