それは脳のなかの「天使」でありながら、ときには「刺客」へと変貌するという。本書の主人公は、非神経細胞のひとつである「ミクログリア」である。
つい最近まで、ミクログリアは脳のなかの端役にすぎないと考えられていた。脳内の情報伝達を担うニューロンや、そのつなぎ役を務めるシナプスといった綺羅星たちと比べると、それが果たす役割はごく些末なものだと考えられていたのである。ところが近年、そうした見方は大きく変わりつつある。ミクログリアは脳のなかできわめて重要な役割を果たすとともに、それが誤作動を起こすと、わたしたちの健康に甚大な被害が生じることがわかってきたのだ。後者の例を言えば、うつ病や不安障害、あるいはアルツハイマー病なども、ミクログリアの誤作動と関係しているという。
本書は、ミクログリアが脚光を浴びるに至った経緯と現状を物語るものである。そしてそのストーリーは、ふたつの糸が撚り合わさった形で進行する。ひとつは、ミクログリアに関する研究の進展をたどる糸。もうひとつは、神経・精神疾患に苦しむ人たちと、それの治癒を目指して新たな治療に挑戦する人たちを追跡する糸だ。科学ジャーナリストとして定評のある著者は、それらの糸を巧みに撚り合わせながら、目の離せないストーリーを縫いあげていく。
では、ミクログリアに対する見方はどのようにして変わっていったのだろうか。すでに触れたように、かつてミクログリアは「つまらない働きをする脳内の細胞」だと考えられていた。しかし、2000年代に高解像度の顕微鏡が登場すると状況は変わっていく。
顕微鏡を覗き込むと、ミクログリアは驚くほど活発に動き回っていた。脳内をくまなく巡回し、各所に異常がないかを点検する。そして、どこかに異常があるとすれば、その長い腕(突起)を現場に向けて大急ぎで伸ばしていく。それはまるで脳のなかの警備隊のようであった。
ミクログリアが果たしている役割はそれだけではない。神経生物学者のベス・スティーヴンスらが示したように、ミクログリアは「シナプスの刈り込み」にも関わっている。そしてその役割こそが、ミクログリアを「天使」にもすれば、「刺客」にもするのである。
ここでアナロジーとして、体の免疫システムについて考えてみよう。細菌などの病原体が体に侵入したり、臓器のなかで細胞が死んでしまったりすると、免疫システムはそれらを速やかに除去しなければならない。その際、補体という特殊な分子によって、それらの病原体や細胞に除去用のタグが付される。すると、マクロファージ(白血球の一種)がタグを見て、それらを食べて消し去ってくれる(いわゆる貪食)。わたしたちの体の治安はそのようにして守られているのだ。
さて、じつは脳のなかでも同じようなことが起きている。わたしたちの脳には数百億のニューロンがあり、それらはシナプスを介して接続されている。ただし、そうした接続のなかには不適切なものもあるので、必要なシナプスは維持・強化される一方で、余計なシナプスは刈り取られなければならない。そうでなければ脳の正常な発達もままならなくなってしまう。
では、そうしたシナプス刈り込みはいかにして行われているのだろう。脳のなかにも補体分子があり、それによってタグ付けされると、シナプスがまもなく消失することがすでにわかっていた。とすれば問題は、「シナプスを食べているのは誰なのか」であろう。そう、じつはミクログリアこそがそのイーターなのだ。
ミクログリアがシナプスを食べていることを示した実験は、じつに鮮やかで、じつに印象的だ。スティーヴンスの研究室にいたドロシー・シェイファーは、マウスの視覚系を用いて、脳内のシナプスを赤に、ミクログリアを緑に染色した。その後何が起きたのかについて、後日、彼女は興奮を隠さずにこう語っている。
「ミクログリアとシナプスを何度も染色し観察していました。何万回と顕微鏡をのぞいていたんです。すると突然、目に赤い構造が飛び込んできた。──シナプスです。赤い蛍光色で発光している小さな点々。その赤い点々が緑のミクログリアのお腹の中にあったんです。…私たちは正しかった! ミクログリアはシナプスを食べている! …動かしようのない証拠が目の前にありました。」
こうして、ミクログリアが脳のなかで重要な役割を果たしていることが明らかになった。しかし、話はここで終わらない。いや、そのストーリーが本当に興味深くなるのは、むしろここからである。
再び体の免疫系について考えてみよう。それはわたしたちの体を日々守ってくれる一方で、わたしたちの健康に害をなすこともある。わたしたちの体が過剰な刺激にさらされると、圧倒された免疫系の軍隊は暴走を始め、間違って自身の細胞や組織に対して攻撃をしかけてしまう。「病原体への攻撃がいきすぎて、体の組織を傷つけてしまう」のだ。その結果が自己免疫疾患であり、具体的には、慢性関節リウマチ、多発性硬化症、1型糖尿病などがそれに相当する。
さて、ここでもまたスティーヴンスの着想が異彩を放つ。体の免疫系で起きているのと同様のことが、脳のなかでも起きているとしたらどうだろうか。つまり、何らかのきっかけでミクログリアが暴走を始め、大事なシナプスまで食い尽くしてしまっているとしたら──。
先に述べたように、いまや多くの研究者たちが、うつ病やアルツハイマー病などの神経・精神疾患がミクログリアの誤作動と関係していると考えている。そして、その考え方を支持するような事実も次第に集まりつつある。
ミクログリアは海馬で活動が過剰になり、健全なシナプスを除去してしまうとともに、海馬を萎縮させてしまうことがあるようだ。海馬は、うつ病や不安障害、アルツハイマー病などとも関連が深いとされる脳部位である。また、アルツハイマー病のマウスでは、補体分子によって多くのシナプスにタグが付けられ、ミクログリアが暴走モードに切り替わっていることが観察されている。というように、それを支持するような事実が積み重なって、ミクログリアの誤作動と特定の疾患とを結びつける見方が強まっているのである。
話をまとめよう。まず、ミクログリアは脳のなかできわめて重要な役割を果たしている。それは、不要なシナプスを処理することで、脳の正常な発達を支えている。だが他方で、ミクログリアはわたしたちの脳と心に甚大な被害を及ぼすこともある。何らかのきっかけで暴走モードに切り替わると、それは健全なシナプスまで食べてしまい、特定の神経・精神疾患を招来させてしまう。ミクログリアが「天使」であり、「刺客」でもあるとされるのは、このような意味においてである。
本書では、興味深いストーリーがさらに続いている。そのなかでもとくに興味深いのは、すでに言及したように、新たなアプローチによって神経・精神疾患を治療しようとする人たちのストーリーだ。
新たな治療法として、経頭蓋磁気刺激、ガンマ光点滅療法、ニューロフィードバック、新しい脳震盪治療法、疑似絶食ダイエットが紹介されている。患者たちの苦境も生々しく語られているので、それらに光明を見出そうとする彼らの思いがひしひしと伝わってくる。そして、それとともに印象深いのが、新たな手法で患者を救おうとする人たちの熱意だ。登場する研究者・医師たちのいずれもが、クールでありながら、心に熱いものを持っている。
適度に硬軟なストーリーを織り交ぜながら、本書は最後まで読者を飽きさせずにリードしてくれる。そして何より、本書はわたしたちに明るい未来を垣間見させてくれる。締め括りとして、ベス・スティーヴンスの言葉を引用しよう。
「たとえばアルツハイマー病なんだけどね。自分のシナプスが失われていないか、症状が現れる20年前に知りたいと思わない? …そうすれば、シナプスが消えてしまわないように、あれこれ手を打つことができるわ! …カギを置いた場所を忘れてしまう段階よ。自分の母親が誰だか忘れてしまうずっと前の段階よ」
体の炎症が「脳の炎症」を引き起こし、ひいてはうつ病を引き起こすことを論じた本。レビューはこちら。
脳内のミクログリアは腸内の微生物叢からも影響を受けるようだ。脳と腸のつながりに関してはこの本を参照したい。