『最後の砦となれ』未知のウイルスとの闘いの記録

2022年3月30日 印刷向け表示
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作者: 大岩ゆり
出版社: 中日新聞社
発売日: 2022/2/19
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「あなたはこの先、コロナ禍のことを忘れてしまうだろう」

もし面と向かってこんな予言をされたら、あなたはどんな反応を示すだろうか。「そんなのあり得ない」と反発するかもしれない。だがこれには先例がある。1918年から1920年にかけて猛威をふるったスペイン風邪である。

スペイン風邪は史上もっとも多くの人間を死に至らしめた感染症だ。にもかかわらず、同時代の表現者たちはほとんどその記録を残していない。当時パンデミックを体験したはずのフィッツジェラルドやフォークナー、ヘミングウェイといった作家たちの作品では、なぜかパンデミックの影が薄いのである。

この奇妙な集団忘却について、『史上最悪のインフルエンザ』は次のような理由をあげている。第一次世界大戦の衝撃のほうが大きかったこと。生き残った人には「ただの風邪」程度のインパクトしか残さなかったこと。社会的に重要な地位にある人々がそれほど犠牲にならなかったために人々の記憶に残るような悲劇性が弱まったこと、などである。

2009年の新型インフルエンザウイルスによるパンデミックを取材した著者も、同じような忘却を経験している。感染者が少なくても医療崩壊が起きる脆弱な医療体制や、検査能力の低さ、保健所の対応能力の限界、ワクチンの開発能力の低さ、専門家の意見をどう政策に反映させるかなど、この時も現下のパンデミックと同じ問題点が明らかになった。ところが、直後は対策のための予算がついたものの、のど元を過ぎれば予算は削られ、教訓はいかされないままに終わった。

こうした忘却が繰り返されてきたことを考えると、どうやら私たちは今回のコロナ禍も忘れてしまうようだ。だからこそ記録が大切になる。忘れやすい私たちの、外部記憶となる記録が。

本書は新型コロナウイルスによるパンデミックが始まって2年間の定点観測の記録である。著者が定点としたのは、名古屋市近郊にあり、国内最大級の病床数を誇る藤田医科大学の本院と4つの関連病院だ。藤田医大病院は国内ではもっとも早く新型コロナとの闘いに臨んだ医療機関のひとつである。

本書にはこの2年間、現場が試行錯誤の中で積み上げてきた知見やノウハウが詰まっている。これほど貴重な記録はない。危機に直面した時に、世論に流されず、現場で何が最善かを懸命に考え、科学的に判断を下していくことがいかに大切か。そのことを本書は教えてくれる。

執筆にあたり、著者は病院側から「藤田医大を美化したり特定の人物をヒーロー扱いしたりする必要は一切ない」と言われたという。忖度なしに事実が書かれているところもまた好感がもてる。

すべては日曜の朝にかかってきた一本の電話から始まった。

2020年2月16日、藤田医大理事長の星長清隆のスマートフォンが鳴った。厚労省の幹部からだった。

「ダイヤモンド・プリンセス号の感染者を岡崎医療センターで引き受けてもらえませんか?」

藤田医大岡崎医療センターは、4月1日の開院に向けて準備を進めていたところだった。まだ開院していないので医療行為はできないと伝えると、無症状で治療の必要がない感染者だけでいい、という。だが人数を聞いて星長は息を飲む。「200人プラスアルファ」を直ちに受け入れてほしいというのだ。

岡崎医療センターは400床。その半数以上が一気に埋まることになる。しかも病院は開院前だ。スタッフの手配はもちろん、リネン類や什器など他にも必要なものがある。これらも急ぎ手配しなければならない。とんでもない無茶ぶりだが、それだけ事態が深刻だったともいえる。乗客と乗員あわせ3711人のうち、2月17日の時点で感染者は454人に達し、対応のために船に乗り込んだ厚労省の職員にも感染は拡大していた。

藤田医大病院は感染者受け入れを決める。決断の背景には、藤田医大病院に何十年も前から脈々と続く「救急患者は絶対に断らない」というモットーがあった。「最後の砦」であることを自らに課してきたからこそ、無茶ぶりにも応えることができたのである。

とはいえ、「最後の砦」を言葉通り実行するのは容易ではない。なぜ藤田医大病院ではそれが可能なのか。著者が病院関係者にその理由を尋ねても、意外と答えに詰まる人が多かったという。本書はこの点を見事に分析している。ジャーナリストは常に部外者だが、外部の人間だからこそ見えるものがあるのだ。藤田医大病院はなぜ「最後の砦」であり続けることができるのか。その理由はぜひ本書で確かめてほしい。

本書の記述はほぼ時系列に進んでいく。突然の感染者受け入れ要請から「手探りで迎えた第1波と第2波」、「怒涛の第3波と第4波」、そして「延べ35万人以上にワクチン接種」へ、といった具合だ。その時々で現場がどんな問題に直面し、どうやって解決策を見出していったかが詳細に描かれる。

とりわけ心に残ったのは初期の対応だ。未知のウイルスへの不安から、当時は社会全体が混乱を来していた。藤田医大病院でも、感染に不安をおぼえた地域住民から職員が差別的な対応をされることがあった。例えば職員が子どもを通わせていた保育園では、「藤田の職員の子どもさんには登園を自粛してもらっています」と中に入れてもらえなかった。

こうした事態には、院内に立ち上げた対策本部が迅速に対応した。門前払いをする保育園や幼稚園があれば、病院長や副院長がすぐに電話をし、濃厚接触者でなければ感染している可能性はないこと、感染者を治療していてもしっかり感染対策をしていれば感染する恐れがないことを丁寧に説明した。話をしてみると、保育園や幼稚園の側には、差別をしている自覚がないことがわかった。先生たちはむしろ、他の子どもを守るために正しい感染対策をとっていると思っていたという。

この指摘には、はっとさせられた。当時は社会と、実際に感染者と接している医療者の認識にギャップがあった。こういう時に感情的になって「差別だ!」と批判しても事態はこじれるだけだ。不安を抱く相手に丁寧に説明する労を厭わなかった病院側の姿勢には学ぶところが多い。

ただ、こうした良い話ばかりではない。初期の頃は、同じ病院内ですら、新型コロナウイルスに対応している医師や看護師に対する同僚からの「偏見」があったという。ここから浮かび上がるのは私たち人間の持つ「弱さ」である。本書がただの記録にとどまらず、深みのあるノンフィクションになっているのは、著者の筆がこうした人間の本質を描く点にも及んでいるからだろう。

藤田医大では現在、この2年間の経験をいかして、感染症の臨床研究をする医療機関のネットワークづくりに取り組んでいる。実現すれば、治療薬候補の臨床研究がスピーディに行えるようになる。また、パンデミックへの対応は災害医療とも共通点が多いことから、南海トラフ地震を見据えた体制づくりにも着手している。どれも今回のパンデミックで得た教訓を未来へとつなぐ取り組みだ。

パンデミックも災害も忘れた頃にやってくる。いざ有事となれば、弱い私たちは不安に押し潰されてしまうかもしれない。本書は「最後の砦」の具体的なイメージを教えてくれる。危機に際し医療機関がどう動いたかを知っていれば、私たちの心構えも違ってくるだろう。次の危機がやってくる前に、読んでおきたい一冊だ。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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