この人をみるたびに、「アンバランス」という言葉が思い浮かぶ。元参議院議員の河井案里である。芸能人や文化人にもアンバランスな人は多いが、そうした人々特有の才能の過剰さからくるバランスのなさと、彼女から感じるそれはニュアンスが異なる。
人目をひく派手な外見ながら、どこか無理をしているような雰囲気があるところがバランスを欠いた印象を与えるのかもしれない。本書を読んでその印象があながち的外れではなかったと知った。本書は生きづらさを抱えたひとりの女性の「転落」の物語であると同時に、この国の政治のどうしようもなくダメな部分を炙り出す一冊である。
河井案里は2019年7月に行われた第25回参議院通常選挙で定数2の広島選挙区から立候補し、第2位の得票で初当選した。夫の克行も9月に安倍内閣の法務大臣に就任し、夫婦でわが世の春を謳歌していた。
ところが案里の当選から3ヶ月後、「週刊文春」がウグイス嬢の「違法買収」疑惑をスクープし、克行は、わずか51日間の在任期間で、法務大臣辞任に追い込まれてしまう。続いて、文春に負けじと地元紙「中国新聞」がスクープを放つ。11月8日の朝刊1面に《河井案里氏、広島県議に現金か 春の選挙中、公選法違反指摘も》の見出しが躍った。この一報で完全に世論の風向きが変わり、夫婦ともどもメディアに追われる身となった。
案里がようやく報道陣の前に姿を現したのは、翌20年1月15日のことだった。この時、彼女はやらかしてしまう。議員宿舎前で取材に応じた彼女は、説明責任を果たさずなぜ国会議員を続けるのか、という記者の問いに、ここぞとばかりに語気を強め、こう答えた。
「ニッポンを変えたいからです」
テレビでなんどもリピートされたので覚えている人も多いだろう。映像を見た時、報道陣が内心、失笑しているのがわかった。彼女は世間から自分がどう見られているか、明らかにわかっていなかった。
著者は2019年夏に週刊誌の取材をきっかけに河井案里と知り合った。「代議士の妻でありながら自分も国会議員になった女性」がその時の取材テーマである。以来、彼女が公職選挙法違反で逮捕される2020年6月まで、面談だけでなく、スマホのショートメールや電話などで頻繁にやりとりしてきた。
なぜ案里は著者と対話を続けたのか、その理由はわからない。ただ、著者には彼女を追いかける動機があった。
初めて会った時から、著者は案里にある種の違和感のようなものを抱いていたという。案里の半生は一見華やかだ。宮崎県の裕福な家庭で育ち、地元の名門校を出て、慶應大学の湘南藤沢キャンパスで学び、大学院では行政改革について学んだ。その後、公立の研究機関に勤めていた27歳の時に、11歳年上の克行と知り合い結婚。2年後に夫の地盤である広島県で県議になり、政治家としての道を歩み始めた。そして2019年の参院選に挑み、45歳でついに国会議員のバッジを手にした。
実にキラキラした経歴である。だが著者は案里と話すたびに、どこか生きづらそうな感じを覚えていたという。恵まれた環境で育ち、優れた教育を受け、向上心に胸膨らませて社会に飛び出した女性ですら生きづらくしてしまう「何か」が、この国の社会にはあるのではないか……。著者は、河井案里の半生を、すなわち女性政治家としての華やかな登場から惨めな退場までを辿りながら、その「何か」へと迫っていく。
本書を読みながら何度も感じたのは、痛々しさである。
高校生の時、湾岸戦争でクルド人難民が問題になった。案里は「クルド人を救え」という論文を書き上げると、九州じゅうの生徒会長宛に手紙を書いて配り、募金を集め、国際機関に送ったという。その一方で、寝坊癖があった案里は、父のポルシェでしばしば校門まで送ってもらっていた。ピュアな正義感を発揮する一方で、ポルシェで校門に乗りつける姿が同級生の目にどう映っているかには気づかない。
案里は2009年に広島県知事選挙に出馬するが、この時も、趣味は「フランス語」と「加圧トレーニング」で、「退屈より大失敗を選びなさい」というココ・シャネルの言葉が好きだとアピールしてしまう。有権者のほとんどは庶民だと思うとなんとも痛々しい。自分を客観視できないのが彼女の弱点かもしれない。
でもだからといって、それを笑う気にもなれない。
本書のタイトル「おもちゃ」は、案里が著者に送ったメールの一節からとられている。「週刊文春」にマージャン賭博を報じられ、検事総長の座を目前にして失脚した黒川弘務元東京高検検事長を引き合いに出しながら、彼女は、〈黒川さんも私も同じように権力闘争のおもちゃにされてしまって、権力の恐ろしさを痛感します〉と書いた。
文字通り、案里は権力を持つ男たちの「おもちゃ」にされてきた。
結婚後、政治家の妻として奮闘していた案里に白羽の矢を立てたのは、広島政界で力が衰えつつあったドンだった。自らの権勢回復のために案里を若手のホープと持ち上げ利用した。だが悲しいかな、彼女は頑張ってしまう人だった。一本気な優等生気質で、言われるがまま台本に従ってしまう。政治は所詮、腹に一物ある狸の世界である。ところが県議会では、必要以上に対立陣営を攻撃し、関係が修復不可能になるほど追い詰めてしまう。周囲に苦々しく思われていることに気づかず、彼女は注目を浴びて有頂天になっていた。自分が「権力闘争のおもちゃ」だとは知らずに。
ただ、彼女を「男社会の犠牲になった女性」とだけ見るのも、また一面的な見方に過ぎない。ある時点までの彼女は、たしかにガラスの天井の下で、もがいていたかもしれない。だが政界に染まっていくにつれ、人間も変わっていった。著者は案里が「ある種の恍惚感に浸るうちに、善悪の判断までも麻痺していったように思える」と指摘する。
そこまで彼女を変えたのは、夫の克行である。政治家としての克行は、地盤(組織)、看板(知名度)、鞄(組織)がなく、加えて人望もなかった。そのため、克行もまた案里を徹底的に利用したのだ。
「岸田さんと菅さんの覇権争いがあって、岸田派と二階派の争いがあって、検察と(安倍)官邸の対立もあって、私はその中で『消費される対象』として擦り減っちゃった」
この言葉に、彼女が女性政治家として体験したことのすべてが集約されている。
公職選挙法違反の罪に問われた案里は、2021年1月21日、懲役1年4ヶ月執行猶予5年の有罪判決を受けた。買収事件に巻き込み人生を狂わせた人に対し、彼女はいまだ謝罪をしていないという。その責めは彼女が負うべきだろう。
ただ一方で、私たちが考えなければならないこともある。社会を変えたいと政治の世界に飛び込んだ女性は、彼女のように権力者のおもちゃになるしかないのだろうか。河井案里の転落の物語は、日本の政治のどうしようもなく古い体質をも炙り出している。
2021年4月、案里の当選無効に伴う再選挙で、自民党は野党に敗れた。求心力が低下した岸田文雄は、起死回生とばかりに河井事件の真相解明をぶち上げ、河井夫妻に渡った「1・5億円」の検証を二階俊博に迫った。
ところがその後、総理大臣になった途端、追及を止めてしまう。ただし、再調査の切り札は自身の手元に残したまま……。男たちの権力闘争は、相変わらず続いているのだ。