書名をみて「ん?」と思った。
「切り札?変革できるか?答えはもう出ているのでは……」
首をひねりながら手に取ったのだが、はたせるかなこのタイトルは反語だった。
書名の脇に添えられた、しかめ面のイラストがそのことを物語っている。
著者は月刊誌『近代柔道』を主な舞台に、30年以上にわたり柔道界を見続けてきたジャーナリスト。本書は日本柔道界への渾身の提言である。
山下泰裕氏は不祥事に揺れる柔道界の「最後の切り札」として全柔連(全日本柔道連盟)会長に就任した。ところが山積する問題は一向に改善されない。それどころか柔道界はますます時代の変化から取り残されている。いったい何が起きているのか。
本書はすぐれた組織論でもある。いまの柔道界で起きていることは、他の多くの組織にもあてはまる。なぜ日本の組織にはダメなところが多いのか。どうすれば改革できるのか。この本にそのヒントがある。
現役時代の山下氏はすごい選手だったといっても、若い人はピンとこないかもしれない。でもたしかにすごかったのだ。なにしろ圧倒的に強かった。1984年のロサンゼルスオリンピックはすべて一本勝ちで金メダルに輝いた。特に右足を痛めたまま戦ったエジプトのラシュワン選手との決勝は名勝負として記憶に残る。203連勝や対外国人選手無敗といったとてつもない記録を持ち、国民栄誉賞も受賞した柔道界のレジェンドである。
山下氏が35歳の若さで全日本柔道男子の監督に就任した時、著者は大きな可能性と共感をおぼえたという。無理もない。現役時代はフェアプレーで知られ、みるからに大人の風格もある。にこにこと他人の話に耳を傾けながら理想を語る山下氏には「清新の気」があった。この人なら柔道界を変えられると期待が膨らむのも当然だろう。
だからこそ、その期待が裏切られた時の失望は大きかった。
2014年、全柔連は評議員会を突如「非公開」とし、報道陣を閉め出した。この時、柔道界は全日本女子チーム監督の暴力事件や国からの助成金の不正利用などで社会的に大きな批判を浴びていた。
後日、著者は山下氏に呼ばれ、報道陣締め出しの理由を告げられる。評議員の中に報道陣がいると意見が言いづらいという人がいるために、忌憚なく話せるよう非公開にすることを決めたというのだ。著者は驚いた。そんなことをやる人物とは思いもよらなかったからだ。これが山下氏のイメージが大きく崩れた最初の出来事だったという。
周囲(特に年輩者)への「忖度」と組織に不都合な事柄の「隠ぺい」はその後、山下氏のお家芸となっていく。
2019年にJOC(日本オリンピック委員会)会長に選ばれると、理事会を「非公開」にすると表明した。理由は全柔連の評議会と同様、「非公開の方が活発な意見が出るから」。この時、非公開に反対したのは、山口香氏(柔道)、高橋尚子氏(陸上競技)、小谷実可子氏(アーティスティック・スイミング)、山崎浩子氏(新体操)の女性理事だけだった。
さらに2020年2月には、全柔連で懲戒処分の公表基準見直しを決議した。これがとんでもない代物だった。パワハラやセクハラなどの不祥事が起きても、中身はほとんど公開しないと決めたのだ。
こうした全柔連の姿勢は現場にも悪影響を与えている。著者はある大会で、目の前で公然と暴力がふるわれるのを目撃した。頻発する暴力事件は柔道界の宿痾である。これまで全柔連は二回も「暴力根絶宣言」を出しているが一向になくならない。他競技に比べると、死亡事故も多い。
こんなことでは、子どもに柔道をやらせたくない親が増えるのは当然だ。事実、登録人口は右肩下がりで減少している。20万人の大台をキープした時期もあったが、2019年は13万人台に落ち込んだ。ちなみに「柔道大国」フランスは60万人台である。
国際的にも日本の存在感は弱まる一方だ。IJF(国際柔道連盟)はオーストリア人のビゼール会長のもと、柔道を魅力あるスポーツにするための改革を行ってきた。「有効」を廃止し、「技あり」と「一本」の二つにしてファンにわかりやすくしたり、カラー柔道衣を導入したりといった改革に、日本の意向は反映されていない。思わず絶句したのは、カラー柔道衣の導入に日本のある幹部が唱えた反対論である。
「花嫁が白無垢を着て嫁ぐのは嫁いだ家風に染まるように純白なのだ。柔道も初心者は成長してだんだん柔道になじんでくる。だから白は柔道教育の象徴のようなものだ」
こんなレベルだから、日本柔道は衰退しているのである。あと20年もすれば、人々に見向きもされない競技になっているかもしれない。もはや改革の道筋は残されていないのだろうか。いや、まだわずかながら可能性は残されている。本書はそのための提言でもある。中でも重要な一手。それは「女性の登用」である。
柔道界には優秀な女性が多い。その筆頭が山口香氏だ。
暴力問題や男女差別について鋭い意見を述べる論客として知られ、コロナ感染が拡大する中でのオリンピックの開催についてもJOC委員として正論を述べてきた。発言は論理的でスタンスもフェア。リーダーのお手本のような人物だ。だが男社会の柔道界ではこれまで理事に選ばれたことはなく、「敬して遠ざけられている」のが現状だという。
本書は「女性の登用」にも多くのページを割いており、教えられるところが多い。面白いデータがある。実はいま世界を相手に活躍しているのは男子よりも女子選手だという。シドニーから東京までのオリンピック6大会の獲得メダル数は、男子26に対し、女子29。直近の世界5大会では、男子29に対し、女子38。女子選手の方が実績を残しているのだ。
近年は女子審判員も目覚ましい活躍をみせている。東京オリンピックでは、天野安喜子氏がIJFから審判員として選抜された。著者によれば、女子審判員は、男子審判員のようにタテ社会のしがらみにとらわれることなく、毅然としたジャッジを行う傾向にあるという。
柔道界に対する著者の提言はどれも傾聴に値する。世界の動向や歴史的な視点を踏まえ、取材データの裏付けもある。さすが専門誌の記者である。
同時に、こうした著者の提言は、他の組織にも当てはめることができるだろう。
「女性の登用」「プロセスの透明化」「すぐれたリーダーの育成」(個人的にはここに「世代交代」も付け加えたい)などは、これからの時代、組織が生き残れるかどうかを決める要素になるはずだ。
本書を読みながらつくづく感じたのは、組織というのは、ひとりの愚かなリーダーのせいでおかしくなるのではないということだ。自分より能力のある女性に嫉妬して陰口を叩くとか、批判者を排除するために気心の知れた内輪で物事を決めるとか、そうした構成員の小さな愚行が積み重なって崩壊していくのである。日本柔道界の目を覆わんばかりの惨状はその実例のひとつだ。
本書を読んだ人は、自分が所属する組織のことを思わずにはいられないだろう。
山下氏が懸命に守ろうとしているのは、「因循、固陋、頑迷な男中心のタテ社会を維持すること」である。あなたの組織は、大丈夫だろうか。
溝口紀子氏も優秀な人である。山口香氏と全柔連の会長・副会長になってほしい。