「あんなに有名な会社の社長がコカインを密輸して捕まるなんて。日本の大人は薬物まみれなのかもしれない」。1993年夏、世間知らずの12歳の私は角川春樹の「コカイン密輸事件」に衝撃を覚え、妄想を膨らませ続けていた。その1週間ほど前に角川が監督した映画『REX 恐竜物語』を見たばかりだった。一緒に見た友人は「社長だけど映画監督でもあるから薬物くらいやっていてもおかしくないだろ」と妙にませた発言をしていたが。
文庫ブームの仕掛け人、映画界の風雲児、俳人、宗教家。角川にはいろいろな「顔」がある。近年は、6回の結婚歴や木刀を1日3万回以上も振ったエピソード、預言者を自認したスピリチュアルな言動など、私生活が注目されることも多い。むしろ、そのような側面しか知らない世代もいるはずだ。本書は、そうした顔はもちろん記しているが、これまで見落とされがちだった出版人としての角川の姿を浮き彫りにしている。
父親が創業した角川書店を継いで社長となった角川は80年代に出版界で一世を風靡した。映画や音楽の公開・発表と書籍の発売を効果的に組み合わせる「メディアミックス」の手法は、評価はともかく「角川文化」なるものも生み出した。本書ではそれらの経緯や角川の出版への思いも語られているが、一編集者としての足跡も詳述されている。
とはいえ、評伝にありがちな、「昔のメチャクチャな時代の豪腕編集者の思い出話」では終わらない。角川は今なお現役の編集者だ。そして、21世紀に入ってもメチャクチャなのだ。
象徴的なのが2009年に発売された『みをつくし料理帖』のエピソード。シリーズ計10巻で400万部を売るベストセラーになったが、この本を売るために彼が取った行動がすごい。
まず、無名の新人作家の作品にもかかわらず、初めから5万部を刷っている。これだけでも破格だが、角川は「五千部ずつ、『初版』『二刷』『三刷』……と奥付表記を変えましてね。それをいっぺんに印刷したんです」「『この本は版を重ねて売れている』と読者に思い込ませるためです(笑)」とあっけらかんと語る。当然、まともな手法ではなく、「書店には、初版のものも五刷のものも並ぶという事態になって、取次のほうからクレームがあってやめましたけれどね(笑)」。笑っている場合ではない気もするが、ベストセラーを生み出す型破りな行動力が健在なのはわかる。
本書はインタビュー形式だが、著者の入念な下調べが角川の異形ぶりを際立たせる。取材に事前のリサーチは欠かせないが、著者の問いかけに角川本人が「よくぞ聞いてくれました」「それは知らなかった」と興奮を隠さないレベルまで調べ尽くしている。
角川の過去の雑誌などでの発言を網羅するのはもちろん、ルーツをたどるために、今では人手に渡っている角川の生家まで足を運ぶ。そして、富山県の米問屋だった生家が米騒動の被害にあったかどうかまで調べ、それはなぜか、角川の人格形成にどのようにつながっているかを考察したりもする。本人以上に本人に詳しい聞き手が、稀代のメディア人に話を聞く。面白くないわけがない。
※週刊東洋経済 2022年1月29日号