『スノーボードを生んだ男 ジェイク・バートンの一生』一枚のおもちゃを世界的なスポーツに

2022年1月26日 印刷向け表示
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雪の上を遊ぶおもちゃの板を、一つのスポーツ、一つのビジネス、一つのカルチャーに育てあげたアメリカ人の自伝である。泥臭く地べたを這いつくばりながら0から1を作り上げたThis is Americaとも言えるストーリーである。その男の名は、ジェイク・バートン、スノーボードのメーカーとしてもっとも有名で巨大なブランドを立ち上げた男である。

はじめに断っておくが、評者は大学時代にカルト的にスノーボードにのめり込んでいた。頻繁に雪山に通えなくなってからは、長らくスノーボードの本が出ることを心待ちにしており、待望の一冊が出た!と飛び上がるぐらい嬉しくなった。現時点で、本書をのぞいて、スノーボードの歴史やカルチャーがまとまめられた書籍は他にないだろう。

スノーボードの原型はスナーファーという雪の上で遊ぶおもちゃのような板だった。なぜ、雪の上を滑るだけの一枚の板が、たった四半世紀でオリンピック種目となり、世界中でスノーボードに熱狂するライダーを生み出す愛されるカルチャーになったのか。アツくなりすぎて雪が溶けないよう、本書の内容をツール、ルール、ロールの3つの視点から冷静に観察していきたい。

ツール

ジェイクは高校生のころ、スナーファーに出会い、ハマった。スナーファーは新雪の上をサーフィンのように滑るただのプラスティックの小型の板である。ソリに一本のロープをつけただけ、10ドルもしないおもちゃのようなものだ。雪に覆われた裏山で毎年のようにスナーファーで遊んでいたあるとき「10年間で100万枚も売れている人気商品なのに、誰もこれを使って何もしないのだろうか」と問いを持った。ジェイクに、スナーファーは単なる遊びではなく、スポーツになるというビジョンが宿った瞬間でもあった。しかし、当時はまだ高校生で実現するには幼すぎた。

大学を卒業し投資銀行に1年あまり勤めたのちに、そのビジョンを叶えるべく、会社を立ち上げた。まず、取り掛かったのは、「遊び用のソリ」の域を超えたちゃんとしたボードを作ることだった。工具店で電動ノコギリを、ホームセンターで板を買って、とりあえず手を動かし作り始めた。板を曲げるために、木工家具の製法を真似て、板を曲げた。ウォータースキーを真似て足を固定するバィンディングを前足に設置した。サーフボードを真似て、発泡スチロールやファイバーグラスを材料にもした。試作品を作っては、実際に滑って試しての繰り返し。いつの間にか納屋は試作品の山である。いつまでたってもうまくいかない試作品作りの中で、まだ試していない製法が一つ残っていることに気がついた。それは、スケートボードの製法だった。ちょうど、100枚目の試作品。板はしなり、雪の上で綺麗にターンができたのである。

ルール

試作品は完成し、本格的に製造に乗り出した。当初考えた計画通りには売れ行きは伸びないものの、1年目に350枚、2年目に700枚と、それから15年間、毎年売り上げが2倍のゆっくりとしたペースで成長していった。飛躍のきっかけはアルバイトで雇っていた高校生たちだった。

元々はスキー場のコース外のパウダースノーを滑るつもりでスノーボードは開発されたが、アルバイトの高校生たちは、会社の近くにあるスキー場に夜中に忍び込んで、車で山頂と麓をピストンしながら、滑っていた。高校生にとっては、ボードを抱えて山に登って滑り降り、また登るのはあまりにも大変で退屈だった。その大胆な行動に乗っかるように、ジェイクは大人な作戦でスキー場を整備する雪上車の運転手にビール1パックを差し入れて山頂まで連れていってもらい、滑るようになった。

その当時はスノーボードができるスキー場は一軒もなかった。ジェイクはスキー場に滑らせてもらえるように、1つづつ根気強く働きかけていった。手紙を下記、ロビー活動を行い、デモンストレーションをし、スノーボードの安全性や可能性を説いていった。最初のスキー場では、スクールで講習を受けたスノーボーダーのみ斜面を滑って良いという条件付きで許可がおりた。その後、スキーヤーとの対立を乗り越えながら、1984年には全米40カ所に、1996年に450のスキー場でスノーボードが楽しめるようになった。スノーボードは反逆的なスポーツではあるが、ジェイクの紳士的かつ無私無欲の地道な交渉によって、スポーツとしての道が開かれていったのである。

ロール

ジェイクはチームライダーを育てた。元々は試作品の出来具合を確かめるために、アルバイトの高校生に乗ってもらっていたことが最初であったが、彼らはスノーボードの楽しさを広めるエヴァンジェリストの役割も自然と担っていた。スノーボードがうまい若者は尖った姿勢を見せることも多かったが、そういった若者を排除するのではなく、うまく仲間に取り込み、家族のようなコミュニティを作っていった。1982年ごろからはスノーボードの競技会がスタートし、チームライダーたちは活躍をしだした。バートンの主戦場はスピードを競うアルペン種目だったが、ジャンプやツイストを競い自由に自分を表現する「フリースタイル」のハーフパイプが盛り上がりを見せはじめていた。これらはオリンピック種目にまで成長したが、バートンのスターライダーだったクレイグ・ケリーは競技会をやめ、新たな境地を切り拓いていった。それは、バックカントリー、天然の雪山を滑ることだった。その姿は見る人を魅了し、撮影された映像は大人気となった。プロライダーがビデオで自分をアピールするという新しい表現とビジネスの扉が開かれていった。

スノーボードは1996年の長野五輪で正式なオリンピック種目となったのちも、競技、バックカントリー、ストリートなど、多様なシーンが開拓され、ジェイクはライダーたちが開拓していくことをサポートし、その多様さを受け入れ、その結果、ビジネスも大きくなっていった。

スタイル

スノーボードはどこでも滑って、なんでもありのように見えてしまうが、そうではない。スタイル(スノーボードの世界にある独特の表現である)を何よりも重視している。それはジェイクも同じであった。

スタイルは全てだ。言葉にするのは難しいが、見れば分かる。そういうものだ。素晴らしいスタイルというのは、見る人の目を喜ばれせる。それは、楽しそうに見えると同時に芸術的でもある。ライダーたちがジャンプしてクルクル回転して体操競技のようになっても、決して失ってはいけないものだ。そこにスタイルがなければ、それはただの空虚な回転でしかない

オリンピックで金メダルを三度獲得したバートンのチームライダーであるショーン・ホワイトもスタイルを語っている。

滑り方から、聞く音楽、着る服、話し方、友達は誰か、そして、どんな人生を送るかまで、その全てにスタイルがある。それは自分で選択するものであり、自然に生まれるものでもある。考えてするものではなく、自然に滲み出るものだ。

親戚のような関係であるスケートボードを含め、オリンピックで他のスポーツとは違った独特の実況や解説がなされるのも、スタイルを重視し、解説しようとしているからだろう。

スノーボードを生み、ビジネスにし、業界を育て、カルチャーを守り抜いたジェイクは病により、惜しまれながら2019年11月に亡くなった。最期の迎え方にも、自身のスタイルを貫き通していた。


作者: フィル・ナイト
出版社: 東洋経済新報社
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ナイキの創業物語である『SHOE DOG』に興奮した人には、おすすめである。バートンはナイキほどの巨大企業ではないが、スノーボードというスポーツ競技を生み出したという点でSHOE DOGとは違う読む楽しみがある。

読んで、滑りたくなった人はこちらをぜひ。

やっぱり、ビジネスだよ、不動産だよっていう人には、ニセコの話をぜひ。ジェイクもニセコを愛して、通っていたそうだ。

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