本書の著者、ダニエル・リーは第2次世界大戦を専門とする歴史家で、ユダヤ系英国人でもある。あるとき彼に依頼が舞い込んだ。依頼主はヴェロニカという女性だ。彼女の母が故郷のチェコで購入したアームチェアを修理に出した際、座面の中からナチスに関する書類が出てきたという。依頼は、なぜそんな物が椅子の中に隠されていたのかを調査してほしいというものだった。
書類は1933〜45年のもので、戦時債券、株券、上級国家公務員2次試験の合格証明書、パスポートなど。どの書類にも、Dr.ローベルト・アルノルト・グリージンガーという名前が記されていた。グリージンガーは法務官で、43年3月にナチ占領下のプラハに派遣されていたようだ。その来歴に興味を持った著者は早速調査を開始する。
書類を頼りにドイツやチェコ・プラハなどの公文書館を訪ね歩き、この男がシュトゥットガルト出身の法務官で、ナチ党員にしてSS(親衛隊)の将校であったこと、終戦後にプラハで死亡したことが判明した。著者はこの事実に強く興味を引かれる。
というのも、ドイツ敗戦後に裁判にかけられたのはナチの大物幹部のみ。「一般のナチ」が訴追されることはなく、彼らは口をつぐみ、過去をもみ消し、自らもナチに騙された被害者だと装った。ドイツには、戦前の家族の振る舞いについてタブーとされている家庭も多い。一般のナチとはどのような人々であったのか。グリージンガーを通してその実態に迫れると考えたのだ。
本書は、いくつもの視点で読むことができる。動乱の時代に生きた野心家、ローベルト・グリージンガーの物語。また、幼少期に父を亡くし、苦労して育ったグリージンガーの2人の娘の物語でもある。彼女たちは、父がSS将校だった事実を知らなかった。父の記憶があまりなく、母も口をつぐみ続けたためだ。
さらに、グリージンガーの活動を通じてSSという複合的な組織を知ることができる点も興味深い。例えば、SSといえば黒色の制服に身を包む残忍な戦闘集団というイメージがある。だが、常勤の隊員は武装SSや、冷酷さで有名な「髑髏部隊」など一部で、グリージンガーを含む多くのSS隊員は非常勤だった。
グリージンガーの野心はもっぱら公務員としての出世に向けられ、SSに入隊したのも、それが出世に有利だからだった。彼は積極的にはSSの活動に参加しなかった。戦争が始まると、秘密警察・ゲスターポ時代の同僚らが殺戮部隊に入隊したのに対し、彼は国防軍第25師団の下士官として出征した。
もっとも、「国防軍」だからといってユダヤ人殺害の責任を免れるわけではない。彼の所属部隊は移動虐殺部隊・アインザッツグルッペンと協力しながらウクライナ各地でユダヤ人を殺害した。
部隊が行軍しユダヤ人を迫害したスタヴィシチェは、実は著者の母方の故郷で、そこでは多くの親族が殺されたようだ。時代を超えて著者とグリージンガーの人生は交差していく。著者は国防軍の行動を細かく調査する。ドイツでは戦後長らく「国防軍は虐殺には関与せず」との説が流布されたが、本書からもそれが誤りであることがよくわかる。
※週刊東洋経済 2022年1月15日号