この本を読んで、はじめて「ナイルレストラン」に行ったときのことを思い出した。
まだ学生時代、ランチタイムを外した時間でひとりだったはずだ。「メニューください」というと、日本語がペラペラなインド人が、
「はじめて? なら、うちにしかないムルギランチにしなさい。鶏の腿肉が骨ごと入っていておいしいよ」
と半ば強引に決められてしまった。料理が来ると、手早く骨を外してくれ、
「カレーと肉とキャベツとジャガイモとごはん、ぜーんぶ混ぜるね。それが一番おいしい」
と食べ方まで指導される。家ではごはんとカレーを少しずつ混ぜ合わせながら食べることがきれいに食べられ、正しいと躾けられていたから、「本当かなあ」と思ったのだが、まずカレーだけで一口、追って混ぜ込んだところを一口食べると、全然違う味に変化したことに驚いた。
手で混ぜて食べるインドの食文化の豊かさを実感した瞬間だったーーというのは後知恵だが、この体験が、のちにインドを訪ねる背景になったことだけは確かだ。
インドカレーというとまず頭に浮かぶのが新宿「中村屋」。インド独立運動の志士、ラス・ビハリ・ボースが教えたレシピをもとにしたカレーが有名なレストランだが、ナイルレストランの創立者A・M・ナイルもまた、ボースの片腕として活躍した革命家だった。カレーを商品化したのは中村屋のほうが先だが、インド料理専門店としてはナイルレストランが日本初。昭和二十四年のことで、そのナイルレストランの親子三代にわたる変遷記が本書である。
だが、この本の中心人物は二代目のG・M・ナイルのほうだ。テレビ、雑誌にも多数登場、『カレー天国』をはじめとする著書も多いから、日本語が達者なインド人として名前を知る人も多いだろう。それもそのはず、母は日本人で、日本で生まれ育っている。
インドの上位カーストに生まれ、京都帝大を出た父親がある意味、食うためにはじめ、最後まで経営者であり続け、料理はまったく出来なかったのに対し、二代目はインド料理の面白さに子供のころから目覚める。
従業員と仲良くなり店の料理をすべて覚え、四十五年の大阪万博の時には一年間、インド館のレストランを応援。現地から派遣された一流シェフの味を自分の舌に叩き込むだけでなく、調理法のすべてを手に入れた。
ナイルが、彼らから企業秘密を聞き出す巧妙なやり口の実際は読んでのお楽しみだが、のちにメディアで活躍するナイルの発想の豊かさの原点をみるようだ。それは、レストラン経営にも存分に活かされている。
料理人はインドから直接スカウトし、充分な給料と二年一度、一か月の帰国休暇を与えるから、彼らは待遇に満足し、他のレストランに移らない。彼らが辞めるのはインドに帰るときだけ、レシピが日本のほかのインド料理店に漏れる心配はない。
そのかわり、従業員と経営者の絶対的な上下関係には厳しい。料理人はインドですでに修行を積んできた者ばかりだが、この店に入ってからは自己流はご法度。「頭を白紙」にしてナイルレストランのレシピの再現だけを心掛けさせるのだ。
だが、貸切り営業やナイル家の別荘でのパーティの時には、好きな料理を思う存分作らせる。それが料理人のガス抜きだということをナイルは知っているからだ。著者の水野氏はそれを、ナイルが若いころから職人と交わってきたために経営者と従業員の関係を肌身で知っているせいだろうというが、それだけではなく、カースト制度の下で生きてきたインド人の血を受け継いだ、ナイルの生きるための本能のようなものも感じる。
G・M・ナイルは今も店に立つが、社長の座は息子のナイル善己に譲った。善己になったナイルレストランがどうなるかは、本書に書かれた先の物語だが、ナイルが生きている限りは変わることはないだろうと確信させるだけの説得力がこの本にはある。
本書を閉じて最初に行ったことは、ナイルレストランに行って「ムルギランチ」を食べることだった。初めて訪れた時のように強制されなかったのは、こっちがずいぶん年を取ったせいだろうか。昔と同じように従業員が骨を取り分け、「おいしく食べてね」と声をかけてくれる。ほかのインド料理店のカレーとも違うムルギランチの味は健在だった。
私は以前、あんなにムルギランチばかりを強制するということはよほど原価が安いんじゃないか、と疑ったことがあったが、本書によればブロイラーではなく老鶏、しかも百五十日以上育てたものだそうだ。肉質が締まっているから普通に焼いてもうまくないが、五、六時間たっぷり蒸し煮することで旨味が引き出される独特の料理だという。
ナイル家の先祖、南インドでは基本的に旨味よりも香りを重視する。やはり「ムルギランチ」はナイルレストランの料理なのだ。