「ああ、ついに起きてしまった……」
そのニュースを知ったとき、思わずそうつぶやいた。今年6月、札幌市街地にヒグマが出没し、4人の方が襲われて負傷した。
数年前から札幌市街地でのヒグマの目撃情報は寄せられていたが、今年は異例と思えるほどヒグマによる人身事故が北海道各地で報じられ、複数の犠牲者も出している。
しかし、なぜヒグマは市街地に出没するようになったのか? 一般的には「山に食べ物がないから」「ヒグマの数が増えているから」などと言われるが、これは本当なのだろうか?
そうした疑問に、長年の調査研究の成果をふまえて答えてくれるのが、『アーバン・ベア となりのヒグマと向き合う』だ。著者は北海道大学ヒグマ研究グループ(北大クマ研)に所属して以来、約30年にわたりヒグマを追ってきた研究者である。
本書では、ヒグマの生態から、人との軋轢の歴史、昨今の農地や市街地への出没の原因、そしてこれからの対策について、科学的な調査に基づいて解説されている。
ヒグマといえば肉食獣の王者のような印象があるが、本書でも随所で述べられるように、じつは彼らの主食は、ドングリやヤマブドウなどの果実類ややわらかい草などの植物である。
サケを狩る姿にヒグマらしさを感じる人も多いかもしれないが、実際にはサケが遡上する川の近くになわばりをもつことができる個体は多数派ではないし、ましてや積極的に人間を狩るために市街地に出没するということはまずありえない。
そしてまた、ヒグマの人里や市街地への出没原因は、本書で詳しく紹介される通り、地域や季節などによって様々だ。札幌市街地への出没を例にするなら、皮肉なことに「自然豊かな町づくり」も原因の一つになっていた。
札幌は中心地をサケも遡上する川が流れ、宅地は豊かな森に囲まれ、この自然との距離の近さは町の魅力となっている。しかし、この豊かな緑が通り道となり、クマが市街地まで入り込んでしまうのだ。
じつはサケは環境汚染などで長らく姿が見られなくなっていたが、環境意識の高まりとともにサケを呼び戻す活動が続けられ、その成果あっての回帰となった。だが、緑豊かな町づくり、野生動物たちにもよかれと思ったことが、ヒグマと人間との軋轢を招くとは、誰が想像しただろう。
市内の川へのヒグマの出没後、クマが身を隠す林を伐採する対策がとられ、それは治安向上や不法投棄軽減にもプラスになった。しかしこれもまた、別の問題につながった。鳥の営巣場所や、水生生物の生息地が損なわれてしまったのである。こうした一連の問題は、都市における野生動物管理の難しさを物語る。
しかし、冒頭で記した今年6月の事例のヒグマの場合は、サケを追って市街地に出てきたわけではない。本書はこの事故が起きる前に執筆されているが、このような記述がある。
オスの子の場合、親離れ後から四歳くらいにかけて出生地から離れた場所に分散していくと考えられる。その過程で、経験が浅いため人目につきやすかったり、好奇心が強く人と出会ってもすぐに逃げなかったり、見知らぬ土地で狭い緑地に入り込んでしまった結果、予想もしなかった市街地のまんなかまで出てきてしまったりすることがある。(中略)お腹を空かせて食べ物を求めて市街地に出没しているわけではなく、まして人を襲うために市街地に出てきているわけでもない。時間が経てば、森に帰っていく。
実際、今回駆除されたのは、推定4~5歳のオスだった。そしてまた、本書では下記のように警告していた。
住宅地でヒグマを目撃した際、車で追跡するような事例も発生しているが、これは避けるべきだ。市街地の住宅地に出てしまったクマは、困惑して動揺している可能性がある。追い詰めることで、予想できない行動に出ることもあるだろう。(中略)自身は車に乗っていて安全だと思っていても、他者に危険がおよぶ可能性があることに思いをめぐらせてほしい。
動画をご覧になった方もおられるだろうが、残念なことに6月の出没時、テレビ局の記者が車でヒグマを追い回していた。その後、ヒグマは自衛隊の施設に逃げ込もうとして、負傷者を出してしまった。まさに本書で書かれていたことが的中してしまったのだ。
うっかり市街地に入り込んでしまった彼のパニックや、草むらに逃げ込み、結局森へ帰れることなく駆除された最期を思うと、どうにもやるせない。そして、命がけで駆除したハンターの方も、きっとそのような気持ちだったのではないかと思うのだ。
町に出たヒグマを駆除するたびに、「麻酔で捕獲して山に返せばよかったのに」という意見も耳にする。これについて本書では、確実に投薬するためにヒグマに接近する必要があり、かつ麻酔が効くのには時間がかかる危険を挙げたうえで、近隣住民の避難の必要や、放獣先確保の難しさ、飼育する必要が出た場合に人なれした個体を山に放すことの問題などを挙げている。つまり、麻酔で放獣、は現実的ではない。
現状では、ヒグマの人里への出没に関しては、出没原因を放置したまま駆除という、対症療法を続けている。しかし、著者らの調査結果からもわかるとおり、すべてのクマが人里に降りてきたり、農作物を食害するなどの問題ある行動をするわけではない。
クマが人里に降りてくる原因として、山での餌不足が挙げられるが、これも本書で詳しく説明されているが、急速に数を増やしたエゾジカの存在が大きく関係していて、クマだけを見るのではなく生態系全体を考慮する必要がある。
「クマが人里に出てこないようにドングリを山に運ぶ」という活動も物議をかもしているが、これが根本的な解決になっていないことも、本書を読めばよくわかるだろう。
都市化は、環境に優しい意識を醸成する。同時に野生動物との関係が希薄となり、野生動物に対する意識もまた、農村部とは異なり、実体験が欠けたまま好意的な側面だけに向けられるものとなりやすい。
駆除される動物を見て「かわいそう」と思う優しい気持ちは大切だが、心優しい無知は時に他者への暴力となってしまうことがある。
本書では、一般的にあまり知られていない、興味深いヒグマの生態も数多く紹介されている。また、いまやクマが出没したことのない場所でも遭遇するリスクがあるが、どのようなことを知り、どのような対策が可能なのか、著者の長年の経験をもとに提言されている。
鳥獣対策に従事している人たちのみならず、クマ出没のリスクがある地域に住んでいる人たちや、行政や町づくり、農林業、観光業、マスメディアなどに関わる人たちは、読んでおくべき本である。
大正4年に開拓部落で起きた凄惨なヒグマ襲撃事件を、のちにその地域の担当になった林務官の木村盛武氏が取材してまとめた(吉村昭『熊嵐』は、『慟哭の谷』から着想を得て小説化された)。2015年、『慟哭の谷』文庫化にあたり著者インタビューがウェブに掲載され、ご存命であったことに驚いた。歴史上の出来事と思っていたかの事件がいっきに現代と地続きになった、不思議な気持ちであった。しかし、『アーバン・ベア』には「木村盛武さん(物故)」と記されており、亡くなっておられたことを知った。丁寧な取材で後世に事件の詳細を残してくださった木村氏に、心から敬意を表したい。『慟哭の谷』紹介記事はこちら。
『アーバン・ベア』でも言及されている一冊。山歩きが好きな人は必読だと思う。紹介記事はこちら。
犠牲者400人以上という信じがたい獣害事件。当時のイギリスによる植民地政策なども複雑に絡み、結局のところ「獣害」とは人間が引き起こしている側面も大きいことを考えさせられる一冊。紹介記事はこちら。
2008年刊行の本で今は電子書籍だけになっているが、はじめにの「身近な野生動物たちは、いま、人間社会をも凌駕し、圧倒する時代を迎えようとしている」という言葉が、現在の状況を的確に言い当てている。この頃から人材育成など適切な対策がとられていれば、違う未来があったかもと思ってしまう。