「民泊」という言葉にどんなイメージがあるだろうか。住宅街に見知らぬ外国人が押し寄せ住民との間でゴミや騒音のトラブルが発生、とネガティブな印象を持つ人もいるかもしれない。実は本書の著者もその一人だった。英語の「バケーションレンタル」に比べると、「民泊」にはどことなく貧乏くさい響きもあって大嫌いだったという。
そんな著者自身が民泊を始めることになったのだから人生はわからない。著者は、箱根にある日本を代表するクラシックホテル、「富士屋ホテル」創業家の流れをくむノンフィクション作家である。ホテルや旅館に関する著作が多く、海外のリゾートにも詳しい。いわば観光の目利きだ。どんな宿を手がけたのか、いやが上にも期待は高まる。
大平台温泉は箱根でも知名度が低く、過疎化と高齢化の著しい地域だ。ここに著者の生まれ育った実家がある。無人の離れは「ひと夏越したらシロアリで腐る」と専門家に指摘されるほど傷んでいた。どうしたものか。すると夫が「民泊はどう?」と言い出した。折しも住宅宿泊事業法(民泊新法)施行後のタイミング。迷った末、著者は民泊の経営に乗り出す決心をする。
けれど、客として泊まるのと宿の主になるのとでは大違い。次々と試練に見舞われた。例えば水回りのトラブルだ。原因は浄化槽に入り込んだ巨大な木の根っこ。取り出すと「井戸から出てくる貞子みたい」だったそうだ。「貞子」といえばホラー映画だが、富士屋ホテル創業家の次女、この家の最初の女主人の名も「貞子」であったという。そんなオチに思わず笑ってしまう。
楽しみながら体験記を読み進めるうちに、民泊開業までの手順やトラブル対処法などが自然と頭に入ってくる。本書は優れた教科書でもある。
2019年7月、古民家を改装した民泊施設「ヤマグチハウス アネックス」がオープンした。家主非居住型と呼ばれる無人の宿である。民泊新法によって、物件にオーナーが住んでいなくても、住宅宿泊管理業者(運営代行業者)に依頼して民泊が運営できるようになった。幸い熱意ある業者とも出会えた。
しかもこの宿は、スタッフ同士も顔を合わせることがない。予約担当者や清掃チームとはLINEで連絡を取り合う。トラブル対応の相談もすべてLINE。こうした実践を通じて著者は、対面でなくとも質の高いサービスを提供し、ゲストの満足度を高められることを発見する。そしてこれを「リモートホスピタリティ」と名付ける。
今後、非接触型のサービスが増える中で、著者が提唱するこの新しいコンセプトは、多くの分野で有益なヒントになるだろう。
滑り出しは順調だった著者の宿も、コロナ禍で一時はインバウンドの予約が途絶えた。ところがその後、劇的なV字回復を遂げる。「三密」の心配がない「一軒家貸し切り」のスタイルは、実は人々が潜在的に求めていた「ニュータイプの民泊」だったのだ。
コロナ禍の中、漠然と予感していたことがある。今最も苦しい思いをしている分野から、新しい時代のアイデアが生まれるのではないかということだ。著者が営む小さな宿は、まさに未来の民泊の可能性を指し示している。
※週刊東洋経済 2021年6月26日号