本書の著者でジャーナリストのスザンナ・キャハランは、突然、抑うつ状態におちいった。次に精神病症状が現れ、幻覚を見るようにもなる。症状は悪化していき医療担当チームは彼女を統合失調症と診断、「精神科病院への移送」を検討した。
しかし、それは誤診だった。彼女は自己免疫性脳炎という病を患っていたのだ。ある神経科医が気づかなければ、重度の統合失調症患者として効果のない抗精神病薬を処方され続け、回復不能な障害を負う可能性があった。彼女はこのときの経験を『脳に棲む魔物』というタイトルの本にして出版。同書はベストセラーとなり映画化もされた。
そんな著者が1973年に『サイエンス』誌に掲載されたデヴィッド・ローゼンハンの論文「狂気の中で正気でいること」に興味を持つのも当然だろう。これは精神医学界に衝撃を与え、後に業界の大変革へと繋がった論文だ。
心理学者のローゼンハンは自身を含む8人の健康な男女を偽患者として精神科病院に入院させるという実験を行った。この実験では、入院と併せて隔離病棟の中を観察、さまざまなデータ収集も行われた。偽患者たちはまず、「空っぽだ。空虚だ。中身が何もない。ドスンという音を立てている」という幻聴があることを主張し、医師が彼らを偽患者と見抜けるかを試す。
その結果、8人全員が入院措置となった。入院後の彼らは幻聴のあるふりを止め、普通の行動をとり医師が患者を偽患者と見抜けるか調べた。だが、偽患者たちが自分は正常であると主張しても、医師も看護師も耳を貸さず、すべての行動が「精神病患者」という色眼鏡で見られてしまう。
例えば病院内の出来事を記録するためにローゼンハンがメモを取っていると、その行動までもが精神疾患の兆候であるとされた。医師は健康な人と精神病患者を区別できないだけでなく、恣意的な基準で精神疾患の診断を下していたのだ。
この実験は米国中にセンセーションを巻き起こす。当時、精神科に入院する際は患者の市民権が最長30日間停止させられた。さらに電気ショック療法やインスリン療法など非科学的で拷問のような危険な治療も行われていた。精神科への入院に人々が戦慄したのも当然である。
著者はこのローゼンハンの偉業を取材し始めたが、調査すればするほど疑問がわいてくる。データの改竄が発覚し科学的根拠が揺らぎ始めるのだ。さらに著者は抹消された9人目の偽患者を見つけ出し取材した。すると抑圧された病棟というローゼンハンの主張とはまったく違う病棟の姿が明らかになる。また、身元が特定できた偽患者は結局3人だけ。残りの偽患者は捏造ではないかと考えるに至る。
実はこの時代にはローゼンハン実験のほかにも心理学の有名な実験が立て続けに行われた。とくに有名なものとしてはスタンフォード監獄実験、ミルグラム実験、マシュマロテストなどがある。近年これらの実験について、再現性の危機が問題になっている。マシュマロテストは覆り、スタンフォード監獄実験はやらせであった可能性が濃厚だ。科学とはどうあるべきなのか。医学界のみならず、科学のあり方全般を問い直す一冊だ。
※週刊東洋経済 2021年5月29日号