この『四分の一世界旅行記』はSF・奇想短篇集の『半分世界』でデビューし小説家として活躍している石川宗生によるバックパッカーとしての旅行記である。四分の一世界旅行記と題されているように、訪問する場所は中央アジア、コーカサス、東欧の15カ国。世界一周でもなければ、アマゾンの奥地にひそむ巨大ナマズを見つけるみたいなビッグ・テーマや企画がある旅ではない。旅が好きな作家が行った、気ままで地味な旅行記だが、それがなんだかおもしろい。
いまのご時世、インターネットに情報は溢れかえっており、旅先でそうそう絶体絶命のピンチに陥ったりすることもない。言葉が通じなくても、スマホで翻訳すればやりとりできる。ある意味、現代は魅力的な旅行記を書きづらい時代である。本書でも本当にたいしたことは起こらないのだけれども、その分、旅の細かなディティール──何を食べたとか、どんな人と出会ったとか、ちょっとした困りごと、悩みごとだとかそこでどんな会話がかわされたのか──、ようは、いきあたりばったりなバックパッカーたちの生態が詳細に描き出されていく。
そして、たしかに劇的なことは起こらないかもしれないが、旅先における些細な日常のことだって、見方を変えればその一瞬、その瞬間にしか起こり得ないことなのだ。たとえばたまたま通行できるかわからない難所があり、そこをどう切り抜けるかとか。たまたまこんな人と出会ったとか、話をしたとか。人の出会いやそれによって気ままに変わっていく旅路はそれ自体が特別なもので、見方によってはとてもセンセーショナルなものなのだ。
著者石川宗生の書く小説は、たとえば道路側の半分が消失した丸出しの家と、なぜかそこで私生活丸出しで暮らす家族4人と、それを観察しいったいこれはなんなんだとワイワイ議論する観察者たちの物語である「半分世界」のように、いったいどこからこんな着想が湧いてきたのだろう? と思うような奇想によって彩られている。本書は旅行記とはいえそうした奇妙さが溢れていて、章ごとにまるで短篇小説を読むようによむこともできる。
旅のディティール
旅の記録が始まるのは中国のウイグル自治区にあるカシュガルからタシュクルガンへと向かう道中。何でも、タシュクルガンにいくのはそう簡単な話ではないらしい。ある人はタシュクルガンに行く途中の検問所で追い返されたと語る。ある旅行代理店の人間はそんなことはない、個人でもいけるという。また別の旅行代理店の人間は外国人の個人旅行は禁止されているという。
誰に聞いても少しずつ異なる答えがかえってくるので不条理感があるが、そんなある時著者は滞在中のホステルで中国人らと知り合いになり、彼らの中にはタシュクルガン行きの許可証を取得している人たちもいたので、急遽タシュクルガンを目指す旅行グループ「チーム・タシュクルガン」が結成されるのであった……。とこんな感じで、いきあたりばったりでいろいろな人と出会いながら前に進んでいく旅が描き出されていく。
中国人たちとどういう話をするのかといえば、政治の話から蒼井そらの話までさまざまで、そうしたどうでもいいことがしっかりと書かれているのがおもしろい。たとえばこんなシーンとか。
こと中国で絶大な人気を誇るのは、言わずとしれたセクシーアイドル蒼井そら。
中国語読みは「ツァンジンコン」らしく、酩酊の果てになぜかみんなしてアメリカ合衆国の応援「ユー・エス・エー!」のリズムで唱え叫んだ。
「ツァン・ジン・コン!」
「ツァン・ジン・コン!」
「ツァン・ジン・コン!」
カシュガルの夜空に響きわたる蒼井そらの名。
ちなみにただ蒼井そらの話だけしているわけではなくて、中国のチベット侵攻についても突っ込んで聞いていたり「よく仲良くなっているとはいえ中国人相手にそんなこと聞けるな」と思うが、わりと突っ込むべきところは突っ込んでいくスタイルもおもしろい。
もちろんそうやって一緒に旅をした相手ともすぐに別れがやってくる。共にタシュクルガンへと向かった中国人らと、いつか日本に行くから、君もまた中国に来いよな、というよくある別れの会話の後に訪れる述懐は、旅の寂寥感に満ちている。
そういえば、自分が旅をしていると実感するのはいつもこういう別れのときだった。「また会おう」という日本だったら現実的な言葉も、異国ではひどくたよりなく感じてしまう。旅はそんな儚い約束の連続で、果たせた約束より、いまだ果たせぬ約束ばかりが増えていく。
でも中国と日本は近いし、モリくんとはいずれまた、きっと。
旅あるある
道中、こうやって様々な人と出会っていくのだけれども、合間合間に「旅あるある」が語られていくのもおもしろい。たとえば、タシュクルガンへ向かう道中にあるカラクリ湖と出会った時、その風景を前にして『テレビやガイドブックで見慣れた有名な観光名所よりも、道中の名もなき景観のほうが感動したりする。』と書いたりする。
世界一周旅行者などの長期旅行者がたどるルートは実はかぎられているので、世界を旅しているにも関わらず旅人同士で共通の知り合いがたくさんいる、というのも(僕のようなバックパッカー的な旅行なんてしたことない人間からすると)意外であった。著者も、出会った人と別れたかと思いきやその後ひょっこり再会する、ということを何度か繰り返している。
ある時、著者は旅の道中で顔なじみになったナギサちゃんという女性としばらく旅をするのだけど、いったいこの二人はどういう関係なんだろうとよみながらちょっとドキドキしてしまった。
なんてことのない仕草が、センセーショナルな出来事になる。
些細な断片でも、それは特別な記憶になりえるのだということが本書を読むとよくわかる。たとえば、アルメニアを訪れた著者は、旅人仲間からの紹介で在アルメニア日本大使館の職員らとの飲み会に参加するのだが、そのシーン(下記)が、また、なんでもない風景なのに、「遠い世界にもリアルな人間が生きていて、そこならではの日常があるんだな」と想像させてくれるのだ。
たとえばひとりの女性はマオちゃんの話に聞き入りながら、厚焼き卵をおいしそうにほおばっていた。もうひとりの若い女性はそのテーブルの端っこですこしばかり物憂そうにビールを飲んでいた。そしてひとりの男性はその和解女性のことをやたらといじっていた。中学生の男子が気のある女子にちょっかいを出すように。
そうした人間味あふれる仕草のひとつひとつが、ぼくにとってはセンセーショナルな出来事だった。
いま、世界はとても旅ができるような状況ではないが、だからこそこういう本を読んで旅をした気分の片鱗だけでも味わうのも悪くない。逆に、旅に行きたくなって苦痛を味わうことになるかもしれないけれど。