親を否定できない。
本書で考えたかったのは、この点です。
生き物である以上、親がいることを誰も否定できない。それだけではなく、父親と母親は、誰にとっても否定できない。否定しようとすればするほど、コンプレックスや負い目を、わたしたち自身が感じます。
わたしの場合、父親は、医者として成功し、古希を超えて筋力を鍛えつづける元体育会ラグビー部員で、母親は、子育てからも家事からも自由に生きています。両親それぞれに、たくさん言いたいことや不満はあるのに、だからこそ否定できません。
理由は、2つの相反する感情がまざっているからです。
ひとつは、「親を純粋に尊敬したい」という願いであり、もうひとつは、親を「正しく」乗り越えなければならないという義務感です。
「親を純粋に尊敬したい」と書きました。裏を返せば、感謝したり、褒め称えたりする気になれないのです。恥ずかしいし、育てるのは当然だとか、自分の方が上回っている部分がある、などと信じたい。
「正しく乗り越えなければならない」とは、「間違えた」やり方があるのではないか。そう、どこかで怖がっているからです。親を尊敬しつつ、他方で、自分なりの道を整えなければならない、そんな義務感です。
わたしの願いと違和感を調和させようと、親子についてのさまざまな本や記事、映画や小説、アニメや漫画を読み漁ってきました。メディアには、親子をめぐる思い出話があふれています。
朝日新聞には「おやじの背中」、雑誌「文藝春秋」には「オヤジとおふくろ」、それぞれ長きにわたる連載があります。わたしだけではなく、みんな、父親や母親が大好きなんですね。親そのものを好きなだけではなく、親について書いたり読んだりすることもまた好きなのでしょう。
とはいえ、親子や親について、いくら考えても袋小路につきあたります。最近みた映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は・・・、と書くとネタバレになるので止めるとして、親子について、うまく考えるのは、とても難しい。
そこで、わたしを「三代目」ととらえたら、親(子)をめぐる思考に、道筋をつけられるのでは? わたしだけではなく、「近代日本」という時間軸におけば、祖父母をめぐる思い出話にとどまらず、本として広げられるのでは? これが本書のモチーフです。
祖父母は、もっとも身近で「可視的」な祖先です。親ほど直接つながっているわけでもなければ、先祖代々、のように遠いわけでもない。幼いころに祖父母の顔を覚えて、老人になれば孫の顔を見ながら死ぬ。こんなサイクルのなかに、わたしたちは生きているのではないでしょうか。
「可視化」を超えた時間軸にいる「ご先祖さま」や「子孫代々」は、まったくの他人であり、遠い。親は近すぎる。じぶんを「三代目」と置いてみると、想像できる範囲の歴史を見通せるし、また、その範囲は近代日本この150年のあゆみに重なります。
そして「三代目」は、歴史をめぐる因果について考えなおすきっかけを与えてくれます。
わたし(たち)は、歴史を考えるとき、原因と結果を置こうとするのではないでしょうか。「あの親によって、あのような育て方をされたから、このような大人になった」のように、なにかがあったから、なにかが起きた、と解釈しようとする。
しかし、本当にそうでしょうか?
科学実験のように、あるいは数式のように、人間を理解できるのでしょうか?
「時系列で追いかけさえすれば、かみくだける」(本書、12ページ)。こうしたクロノロジカルな考え方そのものを考えなおしたい。そうすれば、親(子)をめぐる思考の袋小路につきあたらずに済むのではないでしょうか。
「三代目」という観点(装置)によって、本書で示そうとしたのは、親(子)の相対化であり、親(子)関係をめぐる考え方の相対化です。
相対化は社会学の得意技であり、近代(化)とともに生まれた学問だからこそ「近代日本」を考えるのにも、うってつけです。そんな社会学ならではの自由なものの見方、切り口を楽しんでいただきたい。著者の願いです。