本書は序文から思わずぎくりとするようなことが書かれている。いわく「いまの時代は安定しているように思えるが、現在の状況がひっくり返らないという保証はない……パンデミックは簡単に起こりうる」。さらに「核戦争も起こりうるし、環境災害が待ち構えているかもしれない」と続く。
これは歴史の本ではあるが、オーソドックスな歴史書ではない。著者が目を向けているのは、何らかの形の文明の終焉、終末である。とりあげられている時代は青銅器時代(紀元前1200年ごろに終焉)、古代アッシリア(紀元前612年に首都ニネヴェ陥落)、ローマ帝国(西ローマ帝国はゲルマン人の攻撃で486年に消滅)、そして1000年以上飛んで、二つの世界大戦を経て突入した核の時代。印象としては、歴史オタクが自分の好きな時代のことを好きなように語っているという感じなのだ。内容もかなりマニアックな部分がある。
それは著者ダン・カーリンが、歴史学者や歴史物語の作家ではなく、人気のポッドキャスターであることが関係していると思われる。彼は本書のもとになった『ハードコア・ヒストリー』を含め、三つのポッドキャスト番組を配信している。経歴としては、大学で歴史学を学び、卒業後はテレビ業界に入ってニュース記者となり、ラジオのトークショー番組のホストなどを経て、ポッドキャストに移行したという。つまり彼は長年、映像や音声メディアで活躍してきた人物なのだ。
アメリカではこの数年でポッドキャスト市場が急拡大し、著名人も多く参入しているという。 『ハードコア・ヒストリー』の第一回が公開されたのは2006年というから、かれこれ15年近く人気を保っているわけだ。アメリカでは本書の単行本、電子書籍の他に、オーディブル版も販売されていて、朗読はもちろん本人が行なっている。歴史を「語る」ことが好きな著者が、特にドラマチックな"終末"をテーマにするのは、ごく自然なことなのかもしれない。
著者はある文明や社会や国が終焉を迎えた原因について、探偵のようにさまざまな推理をしている。天災や外国からの襲撃が容疑者としてあげられているが、その中で、まるごと一章使って説明しているのが、くしくもパンデミックなのだ。いまこの時期、本書を手に取って目次を見たら、誰もがまっさきに第6章に目が行くのではないだろうか。
アメリカでの発売は中国で新型コロナが確認される直前なので、今回のパンデミックへの直接の言及はない。しかし著者の視点はまるでこのコロナ禍を予見していたかのようだ。
紀元前から見られ、最も古い感染症といわれる天然痘、14世紀にヨーロッパで猛威をふるった黒死病(ペスト)。第一次世界大戦中に感染拡大し、戦死者よりも多くの犠牲者を出したスペイン風邪。そして1980年代、社会にパニックを引き起こし、偏見や反動を助長したAIDS。パンデミックの怖さについて、カーリンはこんなふうに書いている。「現代の学問的権威も、将来起こりうる疫病について、病気そのものと同じくらい大衆の恐怖、不安、不合理な行動がもたらす危険についての強い懸念を表明している」。さらに「死亡率がこれまで見たこともないほど高いレベルに達したとき、人間社会が理性的、かつ人道的な行動をとるとは想像しにくい……ペストを生き延びた人が経験したような、死亡率が50、60、70%といったレベルになると、私たちも彼らと同じ行動をとるかもしれない。つまり宗教にすがる、社会構造を変える、嫌われ者のマイノリティや集団を責める、前の信念体系を捨てる、などだ」。ウィルスより怖いのは人間……。このコロナ禍でもよく耳にするフレーズだ。
21世紀の高度に発達した医学、衛生状態をもってしても、パンデミックは防げなかったし、未知のものに対する恐怖心や偏見からも逃れられていないと思うと暗澹たる気分になる。しかし悲惨な過去のパンデミックでも、人類は滅亡しなかった。時間がかかっても人口を回復させて乗り越えてきた。今回のパンデミックもいずれ収束し、いつかは穏やかな日々が戻ると信じるしかない。
パンデミック以外にも、人類に危機をもたらすものはたくさんある。本書の後半でとりあげられているのが、核兵器である。第7章と第8章では核兵器の開発とその使用によって起きた世界的な危機が語られるが、近い過去の話だけあって、古代の話とは違う臨場感と緊張感がある。当然ながら、唯一の被爆国である日本は大きな焦点となっている。原爆投下についての米国内での議論、投下後の日本の町や被爆者についてなど、興味深い記述は多い。
核兵器は自然災害とは違って、人間が生み出したものだ。人類を破滅させる力を持つ兵器を、ほかならぬ人間がつくって使用する。そして最初に核実験を成功させたアメリカでは、そのボタンを押す権限を大統領に与えている。つまり一人の人間が、世界を終わらせる力を独占しているのだ。核の危機はいまだ継続中なのである。新型コロナ危機と同時進行していたアメリカ大統領選(の混乱)を見てきたいま、あらためてその意味を考えてしまう。
振り返ると、20世紀は二つの大戦やソ連崩壊など、わかりやすく目に見える終焉があった。その他にも、私たちが気づかないところでいくつものことが終わり、新しいことが始まっていたに違いない。いま現在のコロナ禍も、歴史に残る大事件だ。その終わりがいつになるかはわからないが、収束したときには、世界全体が以前とはかなり変わっているのは想像に難くない。
カーリン氏が原題で表現しているとおり、「終わりは常に近くにある」。はからずもコロナ禍 は、それを実感する機会となった。ただ現在が過去と大きく違うのは、主にインターネットの発達で、情報量が飛躍的に増えたことだ。毎日、各国の状況がサイトやSNSを通じてリアルタイムで世界中に発信される。個人も思ったことを自由に発信する。それは有益な場合もあるが、すべての情報が正しいわけではなく、よけいな情報、悪意のある情報も垂れ流されている。情報の質を正しく見極める必要があるのだが、それはとても難しい。
いまや経済はネットの上に成り立っているし、政治でもインターネットが、よきにつけ悪しきにつけ、大きな役割を果たすようになっているが、ひとつ間違えば、大きな危機を引き起こす危険をはらんでいるように感じる。インターネットには核兵器並か、それ以上の影響力がある。なにしろいま現在も、世界では二つの大国が対立し、片方の国は情報を統制し、もう片方の国では、元首がSNSで好き勝手なことをつぶやいているのだ。これもかなり終末的な光景ではないだろうか(この本が出るころには、選挙結果どおり次の人に交代していますよね?)。
終末はある日突然やってくるのではない。じわじわと時間をかけて進行していく。いまの私たちも、終末のまっただなかを生きているのかもしれない。たとえばこれから500年後くらいに、カーリン氏がいまの時代についてどんな風に語るのか、聞いてみたいところではある。
渡会 圭子