物理学者の寺田寅彦(1878~1935)は科学者というよりエッセイストとして有名かもしれない。本書は彼が残した膨大な随筆から読書論と人生論に関連するものを集めたアンソロジーで、1950年に角川書店から刊行された底本には創業者である角川源義の解説が付けられていた(本書にも掲載)。
取り上げられた主題は、身の回りの些事からアインシュタインの教育観まで幅広い。そして二十代で執筆を始め亡くなる少し前の五十代後半まで書きつがれた文章には、温かい人間味と深い教養がにじみ出ている。その結果、理系人の文章としては感性が豊かな、言わば科学と文学が融和した作品となっている。
寺田は明治時代の世界的な実験物理学者で、東京帝国大学教授を務めるのみならず、夏目漱石をめぐる文壇の一員としても活躍した。漱石の小説『三四郎』に登場する科学者の野々宮荘八のモデルとしても有名だ。
彼については数多く語られてきたが、ここでは本書にも登場する「ライフハック」(仕事を効率よく行うための技術、知的生産術)に長けていた面を紹介したい。
たとえば、米国の政治家で科学者でもあるベンジャミン・フランクリン(1706〜1790)は、『フランクリン自伝』(岩波文庫)に見事な知的生産術を披露しているが、寺田もこうした内容を書き残しているのだ。岩波書店刊行の全集を読み返してみると、クリエイティブな研究を遂行するための刺激的なアイデアが至るところに現れていることに驚く。
本書からもいくつか例を挙げてみよう。学校で使っている教科書からポイントを抜き書きし、その欄外に書き込むくだりである。
記憶に便ぜんがため、自分は学校にいるうち抜き書きということをよくやった。云うまでもなく教科書中の主要の点を抜き書きして、教科書の欄外などへそのまま書き抜いておくのである(「わが中学時代の勉強法」本書79ページ)
明治時代の中学生が教科書へ直接書き込む姿が、私にはとても新鮮だった。現在でも大学生たちは、本は大切なものだから汚してはならないという教育を少なからず受けている。もちろん知的な書物を大切にするのは大変良いことだが、本を神聖視するあまり肝心の中味の吸収が疎かになっているのを私は心配する。
こうした学生たちに対して私は「本は文房具である」と宣言し、ノートのように書き込みながら使うべきだと教室で力説してきた。汚して使うことによって本は自分だけの所有物となり、みずからの「ライブラリー」が完成してゆくからだ(拙著『成功術 時間の戦略』文春新書、108ページ)。
ここには学習上の合理性も含まれている。もしノートに梗概を記録しても、何年もたつとそのノートは散逸し、結局何を考えたのかがわからなくなってしまう。一方、本をノート代わりにして直接書き込んでおけば、要点なり、自分の感想が残るので、あとで活用することが容易になる。それについて寺田もこう書いている。
自分は中学時代にあまりノートへ記すことはせなかった。教科書以外の物に書いておくと、第一あれこれと読むたびに出して見るのが面倒である。また教科書を開いて見ると、一緒に抜き書きも読むことが出来るという便利があるので、あえて自分は教科書をも汚したわけである(「わが中学時代の勉強法」、本書80ページ)
こうして寺田が「教科書をも汚した」と述べていることを知り、私は凱歌をあげた。「本は文房具」というキーフレーズは、時間を無駄に使うまいという「時間の戦略」に立脚している。彼の「主要の点を抜き書き」という方法に納得した私は、学生たちに伝える勉強法へと結実させていった。
さらに寺田は物理学者のアインシュタイン(1879〜1955)の教育観に強い関心を示し、学校の生徒たちの勉強法を考察する。たとえば、勉強時間に関して具体的にこう述べている。
一日六時間、そのうち四時間は学校、二時間は宅で練習すればたくさんで、それすら最大限である。(中略) 時間を減らして、その代りあまり必須でない科目を削るがいい(「アインシュタインの教育観」、本書196ページ)
これは現代でも通用するのではないだろうか。寺田は、勉強時間だけ長くすればよい、という当時もあっただろう風潮にしっかり釘を刺す。さらに寺田は、勉強は強いて努めるものではない、と主張する。
故意に怠(なま)けるというと、何だか可笑(おか)しく聞こえるが、自分は厭(いや)になった時、無理につとめて勉強をつづけようとはせず、好きなようにして遊ぶ。散歩にも出掛ければ、好きなものを見にもゆく。はなはだ勝手気ままのやり方ではあるが、こうして好きなことをして一日遊ぶと、今まで錯雑していた頭脳が新鮮になって、何を読んでもはっきりと心持ちよく呑み込める(「わが中学時代の勉強法」本書80〜81ページ)
何と寺田は中学時代からこんなことを考え「成功体験」として会得していたのだ。こうした考え方は、読書の仕方まで拡張される。
自分でいちばん読みたいと思う本を、その興味のつづく限り読む。そしていやになったら途中でもかまわず投げ出して、また次に読みたくなったものを読んだらいいでしょう(「読書の今昔」本書66〜67ページ)。
さらに寺田は、本は最後まで読まなければならない、という強迫観念から逃れることを強く薦める。
二、三ページ読んだきりで投げ出したり、またページを繰って挿画を見ただけの本でも、ずっと後になって意外に役に立つ場合もある。若い時分には、読みだした本をおしまいまで読まないのが悪事であるような気がしたのであるが、今では読みたくない本を無理に読むことは第一できないし、また読む方が悪いような気がする(「読書の今昔」本書68ページ)
寺田は実にフレキシブルな考え方の持ち主であり、その自由な読書法は奇想天外な読み方まで指南する。
時には小説などを終わりの方から逆にはじめの方へ読むのも面白い。そうしていけない理由もない(「読書の今昔」本書68ページ)
私も難解な古典などは、本の末尾にある解説から読んで全体像を先につかむことを薦めているが、寺田にかかると小説まで広げているのが興味深い。私の知人にも推理小説の犯人を特定してからトリックや仕掛けの出来具合を楽しむ科学者がいるが、寺田型読書術の一つかも知れない。
彼の雑談を教場で聴いた当時の学生たちは、読書が本当に好きになったのではないかと想像する。ちなみに、こうした柔軟な発想に触発されて書いたのが拙著『読まずにすませる読書術』(SB新書)である。教え子の京大生に読書が苦手な学生が続出し、放っておけなくなったからだ。
寺田が開陳している方法論は、現代風に言えば「自分固有の勉強法を確立すること」、すなわち「勉強法のカスタマイズ」となる。私もその後、学生たちに数々の勉強法を説いてきたが、そこには彼の影響が少なからずあったと思う(拙著『新版 一生モノの勉強法』ちくま文庫)。
寺田はビジネス書こそ書かなかったが、本書をていねいに読むと彼のライフハック技術を至るところで垣間見ることができる。また、教育に関する寺田の記述を読むと、彼は幅広い関心を持つきわめてコミュニケーション能力の高い人物ではなかったかと思う。
したがって寺田は、アカデミアに残らず実社会へ出たとしても、有能なビジネスパーソンとして活躍したに違いない、と私は想像する。実際、私が出会った教授たちの半分は、時間の戦略に長け、手際よく仕事をこなし、コミュニケーション能力が高く、趣味も豊かで、寺田に対するのと同様の感想を彼らに抱いていた(もう半分は学者以外には世間でとても通用しない人たちだったが)。
もちろん全人格的な能力が学問研究に必須なものでは決してないのだが、有能な人は何をやらせてもそれなりの成果を挙げるということは、古今東西変わらぬ事実のようである。