読み始めて、すぐに気がついたことがある。これは、医療の本であると見せかけて、知識に大きな差がある人間関係におけるコミュニケーションの本である、ということだ。中高生に関わる仕事をしているためか、私自身は患者を生徒に、医師を先生に変換して読んだ。親と子、上司と部下、行政と市民など、他の形で変換することもできるだろう。このような関係性を振り返り、新しい関係性を構築したい方に本書をおすすめしたい。
2020年の18歳人口は約116万人、医学部の入学定員は約9,400人、123人に1人が医師になる。小学校の3クラスに1人くらいの割合で、その中でずば抜けて頭のいい同級生が、医師になる。そんな秀才たちが、医療現場では、自分の話している言葉、伝えたいことが患者に伝わらなくて、苦労している。医師は自らの助言で、患者が行動を変えないと、死に至る確率が高いことがわかっている。だけど、生存率や科学的なファクトを伝えても患者の行動は変わらない。では、患者の行動変容はどのようにしたら、起こるのだろう。
医師と患者、双方からのストーリーを聞くことで、チグハグになっている診療室でのコミュニケーションを浮き彫りにする。え、そこまで食い違うの?と読んでいて唖然とするが、著者自身の研修医時代の失敗や臨床で向き合う患者とのやりとりなど、話題には事欠かさない。
そして、本書を最もドラマチックにしているのは、幼少期からあらゆる種類の奇妙な疾患にみまわれた大学生のモーガン・アマンダと内科医のジュリエット・マグロティスのストーリーである。まず、双方に話を聞けたこと自体が奇跡的である。貴重な証言を、あらゆる側面に配慮しながら、きれいごとだけでない、読み手が深い学びを得られるようなストーリーに仕上げた著者の腕前に感服する。
そして、ストーリーだけでなく、医師と患者のコミュニケーションに関する科学的なエビデンスも随所に散りばめられている。例えば、専門用語である。医師と患者の間にはお互いを思いやる気持ちがあったとしても、深い溝がある。昔から歯科検診のときに不思議に思っていたことがある。歯医者さんは、口を覗き込みながら、数字とアルファベットを読み上げていき、助手は記録する。なぜ患者である私にわからない言葉を使うのだろう、そしていったい、何がわかったのだろうか、虫歯なら虫歯と言ってほしいと思っていた。
ただ、この本を読んだあとでは、その場面の背景に2つのことがあることがわかった(きっともっとたくさんあるのだろうけれど)。1つは、専門用語を使うことで正確性が高まること、医師は大学入学後に、1万語以上の医学用語を習得するらしい。そして、それらの用語は患者は一生習うことはない言葉たち(一般的な辞書にも掲載されていないことも稀ではない)である。
循環器医が専門用語の理解度についてアンケートを取ったところ、専門用語を患者がどれだけ理解をしているかで、本人と医師の間で認識に大きなギャップがあった。医師は患者が言葉を理解していると考えるいっぽうで、患者は大して理解できていない。医師は専門用語を患者の理解度と置かれた状況にあわせて、専門用語を変換して話す必要がある。
インターネットで様々な知識をハンティングして、診察室に挑むわかったつもりになっている患者が一番厄介かもしれない。知識を事前に手に入れ、限られた診察時間を本当に話すべきことを話せるように準備する姿勢は素晴らしい。しかし、もし言葉を勘違いしたままであれば、徒労に終わってしまう。わざわざ限られた時間で専門用語の理解度チェックをしている暇もないのだ。
そう、診療室で診断できる時間は、医学知識が膨大に増加したにも関わらず、昔からほとんど変わっていない。だいたい15分である。話をしている最中に待たせている患者の診療時間になり、頭を猛スピードで回転させながら、患者の話を収束させようと、話をまとめていく。会話の主導権はいつも医師が握ることになり、患者は大切な話をしようとしても、すぐに医師が理解したいことを問うための質問が飛び交い、すかさず専門用語を交えた所見が伝えられる。
医師と言えども、マルチタスクを行えば、患者から聞くべきことが漏れ落ち、事務作業やコンピュータへの記録にも綻びが出る。そして、生死に関わる致命傷になりうるのが医療現場である。だから、医師は患者に目線をあわせる余裕はなく、限られた時間で患者を診るのではなく、モニターばかりを見つめることになる。
患者としては専門家に診断してもらったという安堵感はある。風邪ならそれでいいだろう。けれど、命に関わる病やこれから長く付き合っていく必要がある生活習慣病であれば、もっと医師と話をして信頼関係を築きたい。それは患者側の願いだけでなく、医師側もそのように考えている(少なくとも筆者は)。だが、様々な諸条件がそれを許さないのだ。
医師は、患者の話をしっかりと聞けているのだろうか。そして、目の前の患者が医師から本当に聞きたいと思っていることは何かを慮っているだろうか。伝えたいことを伝える前にしっかりと患者の声を聞き、会話をすることは、簡単なことだと思われているが、実は困難きわまりない技術の一つなのである。
その技術を向上させる手段として、医療コミュニケーション分析方法(RIAS)が医学教育に活用されている。会話の事実部分と情緒的要素の両方を数字で評価する方法で、コミュニケーション研究の標準的な尺度である。例えば、共感を示した発言が一度もない、診断の間に8回患者への気がかりを示しているが、すべてが「心配いりませんよ」の陳腐な決まり文句だった、という風に改善の余地が明らかである結果が出る。
RIASは研究に活用されている。医師-患者のコミュニケーション・タイプの分類がある。1/3が事実を聞き取られる従来型の診察「狭義で生物医学的」、1/3が多少なりとも心理的・社会的満足度に踏み込もうとする「広義で生物医学的」、1/5が医学的な話と心理・社会的な話を等分口にする「生物・心理・社会的」、1/10が質問のほとんどが患者からで医師は情報の提供に時間を費やす「消費者利益優先」に分類された。もちろん、「狭義で生物医学的」には、患者はまったく魅力を感じていなかった。医師もこのタイプをあまり支持していないようで、情報収集の効率が悪いと考えているそうだ。
コミュニケーションの治療効果はどうだろうか。実は驚くほど頑健な研究のエビデンスが会話の効果を裏づけしている。何より、言葉は薬よりもはるかに安い、その価値を探らない理由はない。そして、コミュニケーションを通じた治療は太古の昔からヒーラーやシャーマンが直感的に理解し、治療に用いていたものだ。これらはプラセボとして扱われ、医療者は不安を感じ、倫理に反し、詐欺だと考えられている。しかし、患者の側からすれば、痛みを治してくれればなんでもいいのだ。プラセボは適切な医療の代用にはならないが、そのメリットを活用することは医療を向上させることができる。そして、プラセボにおける必須要素は医師と患者のコミュニケーションであり、そのエビデンスがあるのだ。
医師でも患者でもない科学ノンフィクションの読者としては、どうしても懐疑的になりやすいコミュニケーションというテーマを堅実に分析しているだけではない。患者と医師の心温まる、ときに残酷なストーリーがどちらかと言えばメインである。ストーリーとサイエンスの両面から、「会話」の可能性と危険性を語り尽くした素晴らしい一冊である。改めて、コミュニケーションをなんとかしたい、すべての人におすすめしたい。
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