HONZが送り出す、期待の新メンバー登場! 中野 亜海は三味線と江戸時代を趣味に持ちながら、実用書やビジネス系の本も手掛ける敏腕編集者。今後の彼女の活躍にどうぞ、ご期待ください!(HONZ編集部)
目が見えない、あるいは耳の聞こえない子どもたちは、こう言われて育つらしい。「どうして、ヘレン・ケラーのようにできないの?」
筆者のジョージナ・クリーグは目が見えない。対してヘレン・ケラーは、目も見えない上に耳も聞こえない。子どもの頃から、自分より障害が重いこの偉人と比べられ続けた彼女が、ムカつきすぎてヘレンに怒りの手紙を書いたのが本書だ。もちろんヘレンから返事が届くことはない。一方的に書いている。
筆者の、ヘレンへの一通目の手紙は素朴なつっこみだ。「ちょっとあなた、いい子ちゃんすぎない?」である。本書は「創造的ノンフィクション」という形式で書かれている。これは、資料に基づいた正確な事実を、筆者が文学的に膨らますというものだ。筆者がこと細かにその日、ヘレンが何をしたのか、どういう状況の中にいたのかを調べ上げているだけあって、「この状況でヘレンがこう反応するのは、たしかに無理してるな」と思うようなシーンがよくある。
この本を読むと、いつもの読書と違った体験ができる。それは、ヘレンの綿密な情報だけでなく、触ったり、匂いを嗅いだり、自分の体の動悸を感じたりというような、つまり目が見えない人の体験だ。筆者が見えない人だというのがとても大きく、身体的な体験ができる新しい読書ができる。
最初の素朴なつっこみ、「どうしてヘレンがいい子ちゃんになったのか」は、この本全編を貫く疑問になる。これを考えていくことで、ヘレンがどんな人生を送った人物なのか、なんだか真に迫ってくるのだ。
大きな答えのひとつがサリバン先生だ。
サリバン先生には登場するたびに「サリバン先生って、そんな人だったの!?」と思わされる。支配的で気が強く、辛辣で打算的、しかも全部他人のせい。子どものころ、手がつけられないやんちゃな野生児だったヘレンを「人間にした」家庭教師だから、その支配力は絶大だ。もしいい人でも、子どもの頃の先生が、成人した後もずっと隣で指図し続けたらつらすぎるのに、サリバン先生は性格もものすごい。
サリバン先生は、ヘレンの家庭教師になったときにはたった21歳。最下層の救済院で成長期の4年間育ち、そこで唯一の弟を亡くし、しかも目も見えなかった(その後視力が回復する)。頭がよくて、気が強くて、生きるのに必死なサリバン先生の人間像も、この本では明らかになっていく。
11歳のとき、ヘレンが小説の盗作疑惑で、学校内で教師たちに呼び出されて裁判にかけられた事件がある。その頃すでに、ヘレンは学校の寄付の広告塔になるほどの有名人だった。この裁判は、本質的には、ヘレンへ向けての裁判ではなかった。本当は、他の教師たちが傲慢な態度のサリバン先生を追い出すためのものだったのだ。
ヘレンはこのとき、「サリバン先生が追い出されると自分も困るし、先生も困る」と思ってウソをつきとおすのだが、この事件はとても象徴的で、その後結婚にも、仕事にも、この状態が一生つきまとう。つまり、先生に依存したい気持ちと、その先生が足手まといになるという状態だ。
ヘレンは、その後ラドクリフ・カレッジ(現ハーバード大学)を卒業し、出版した本もベストセラー、奇跡の人として世界中の講演会でひっぱりだこになる。大人になったヘレンはサリバン先生の知性も、もう追い越してしまう。いろんなことに興味津々で人間が好き、何でも経験したいヘレンと、厳格で上品さを大事にし、上流階級の人と交わりたいサリバン先生は、どんどん合わなくなっていく。
しかし、どうしてもサリバン先生が主で、ヘレンが従という関係が切れない。ヘレンの障がいにはサリバン先生の介助が必要だし、サリバン先生はヘレンと離れると、お金も、名声もなくなってしまうからだ。
ちなみに、ヘレンはじつの母からも障がいを理由に結婚を認められず(サリバン先生ももちろん反対)、時代もあるのだろうが、こんなに自分の人生を誰かに支配されつづけるなんて、本当につらい。これを受け入れていたなんて、生まれつきのヘレンの性格がよかったんだろうと思う反面、どうしてこんなに我慢しつづけてるんだろうとも思う。
「どうしてそんなにいい子ちゃんなの?」とますます思うが、その答えもじわじわ同時にわかってくる。
ヘレンの気持ちになりきるこの本では、当然のように障害者への差別の問題も細かく描写される。「どうせ自分でものを考えたりできない」「子どもなんて育てられない」「この施設には障害者はもともとは入れませんけど…なんで来ちゃったんですか?」。こういうことを悪気なくいわれる、ナチュラルな差別がヘレンと筆者のまわりに常にある。「ただ人々に属したい」、そのためにヘレンがどれだけの苦労をしたのかがとても分かる。
この本は、ヘレン・ケラーの気持ちを知りたいあまりにリアリティがすごく、読んだあと、まさに一緒に生きたという感触が持てる本である。つまり、支配され、差別を受け、でも成功する人生を一緒に歩めたような気がする。そして、もし、未来や老後に「障害を持っても大丈夫」と思うくらい、自分が障害者に変身できた気持ちにもなれる。ただの評伝を超える、体験型読書をしたい人におすすめの一冊だ。