『黒魔術がひそむ国 ミャンマー政治の舞台裏』
大統領の誕生日は国家機密!?
政治家は孤独な職業だと言われる。未来がどうなるかわからない中、たったひとりで決断を下さなければならないのだから、それも当然かもしれない。「政治家と孤独」で思い出すのがノリエガ将軍のエピソードだ。パナマの独裁者として君臨したノリエガは、当初はアメリカにとって利用価値のある(CIAのアセットだった)人物だったが、次第に目の上のタンコブのような存在となり、ブッシュ大統領が命じたアメリカ軍のパナマ侵攻によって身柄を拘束された。
ノリエガにはいくつもの隠れ家があり、そのうちのひとつから見つかったのが、大量の動物の血とオペラのCDだった。ノリエガは動物を生け贄に捧げるキューバの民間信仰「サンテリア」の信者だったと言われる。オペラを流しながら魔術的な儀式にふける独裁者。なんと退廃的な光景だろう。
そういえば『ブッシュvsノリエガ 独裁者追放』という古い本があるが、たしかこの中でも、ノリエガ周辺を取材していた記者がホテルに戻ると、ベッドに血溜まりがあるのを発見する場面が出てきた。もちろんノリエガからの「警告」である。
ノリエガは、いつ何が自分を救ってくれるかわからないと、あらゆる迷信を信じたという。ノリエガのような独裁者と一緒にするなと言われるかもしれないが、政治家という人種は多かれ少なかれ占いやまじないなども含めた「宗教的なるもの」と親和性があるのではなかろうか。孤独な決断を日々迫られていれば、つい迷信に頼りたくもなるだろう。
だが、ミャンマーの場合は、いささか度を超えているのではないかと思った。
なにしろこの国では、政治家の生年月日を公表するのはタブーだというのだ。生年月日がわかってしまうと、誰かに黒魔術で呪われてしまう恐れがあるため、公人中の公人である大統領ですら正確な生年月日は伏せられているという。
毎日新聞のアジア総局長だった著者がミャンマーの国家指導者の誕生日に疑問を抱いたのは、2012年のことだった。この年のノーベル平和賞の有力候補としてテインセイン大統領の名前が挙がり、受賞を想定した予定稿の準備に取り掛かったところ、誕生日がふた通り流布していることに気づいたのだ。だが、確認をとろうと大統領府に問い合わせても、なぜか要領を得ない(「あなたが正しいと思う方の情報を使えばいい」などと無茶なことを言われる始末)。結局この時の受賞はなく、原稿も日の目を見なかったが、真相がわかったのはそれから2年以上もたってからだった。情報省のネタ元から「国家指導者はアウラーン(黒魔術)を恐れている」という証言を得たのだ。ミャンマーの政治指導者にとって、正確な誕生日はトップシークレットだったのである。
ミャンマーは「パゴダ(仏塔)の国」と言われる。たしかに国民の9割は仏教徒だ。ただその一方で、この国が「占い大国」でもあるという事実はあまり知られていない。実はミャンマーの人々の精神世界は、仏教だけでなく、ナッ(精霊)信仰やウェイザー(超能力者)信仰、阿羅漢信仰、占星術、数秘術などが渾然一体と融合した壮大なコスモロジーなのだという。政治家が黒魔術を恐れるのも、この国ではごく普通の感覚なのだ。
本書には驚くようなエピソードがたくさん出てくる。
ある時、政府が催した公式夕食会で奇妙な光景が見られた。その場に勢ぞろいした軍事政権の最高幹部たちがあでやかに女装していたのだ。これは、政府お抱えの占星術師が「近く女性が政権をとる」と予言したためだった。予言に対抗するために、軍政指導部はヤダヤと呼ばれる「厄払い」を行った。みんなで女装して、いったん女性政権が誕生したことにしたのである。
2005年から06年にかけては、諸外国にまったく知られることなく、ヤンゴンからネピドーへの遷都を実現させ、国際社会を驚かせた。占星術師の関与も噂されるこの突然の遷都では、数秘術などに基づいて11月11日の11時に、11の国軍部隊と11の省庁の職員が1100台の軍用トラックで一斉に移動したという。さらに遷都後、軍政は9002人の囚人を恩赦で釈放すると発表した。9002は数秘術的には9+2で11となり……ああもう、訳がわからない!
軍政期に起きたクーデター未遂事件の顛末もちょっと凄い。なにしろ政府転覆を企てた証拠として当局に押収されたのが「フィギュア」だったのだ。フィギュアが「呪いの人形」とされ、裁判で大真面目に犯罪の物証として取り上げられたのである(まるで漫画『呪術廻戦』で釘崎野薔薇が使う「芻霊呪法」のよう。ミャンマーでは『呪術廻戦』的な世界がリアルなのだ)。
もっとも、呪術や占星術といったキャッチーな切り口からミャンマーを読み解くというのは、著者一流の作戦だろう。その狙いは見事に的中している。エピソードはどれも面白く、夢中になって読み進むうちに、私たちはいつの間にかミャンマーという国の複雑な背景に触れることになる。
ミャンマーは近代国家として極めて困難な歩みを強いられてきた。その歩みは、諸外国の思惑に翻弄され続けてきた歴史と言っていい。長くイギリスに統治され、植民地下ではインドや中国から流入した移民に経済を牛耳られた。ミャンマー人の特質のひとつが「ゼノフォビック(外国嫌い)」であるのは、「外国の干渉」に敏感にならざるを得ない歴史的背景があるからだ。このような背景のもと、ミャンマー人の大半が信仰する仏教がアイデンティティのよりどころになったが、やがてそれは「仏教ナショナリズム」化し、現在では宗教間暴動を先鋭化させる要因となっている。
ミャンマーといえば、国際社会が強い危機感とともに注視しているのがロヒンギャ問題である。この問題も宗教間暴動の側面を持つが、著者は一面的な見方にとどまることのないよう釘をさす。ロヒンギャへの弾圧が看過できない人権侵害であることは明白だが、その一方で、「人権と民主主義」という西洋由来の価値観に基づくだけでは解決できない側面があることにも著者は注意を促している。この問題にもイギリスの植民地支配が影を落としている。単純な対立関係ではなく、複雑な歴史的背景も視野に入れなければ解決策は見えてこない。
さて、ミャンマーで誰もが知る有名人といえば、アウサンスーチーである。
「スーチーは占星術を信じてはいないが、精通している」というのが現地の占星術業界の通説だという。本当のところはどうなのか。著者はスーチー氏にも占星術師の予言について質問をぶつけている。はたしてスーチー氏は占いが好きなのか嫌いなのか。その答えはぜひ本書で確かめてほしい。