日経平均株価が史上最高値を出した1989年。日本はバブル経済真っ只中であった。この時代に最前線でがむしゃらに働かされていた都会の二十代半ばの青年たちはみな、景気はさらに上昇し、凋落の時など頭の片隅にもなかったのだ。
著者の山口ミルコさんは1965年生まれ。89年には24歳。新卒時は、まさにバブル期のど真ん中で働く保険会社の普通のOLのひとりだった。あるきっかけでボスに紹介された著者は角川書店に転職した。そこから20年ほどの間、彼女は怒涛の編集者生活を送ることになる。
このバブル絶頂期からサブプライムショックまで、いわゆるバリキャリで働いていたミルコさんと同年代の女性は、どう暮らしていたか。まずは彼女たちの話を聞いてみた。雇用機会均等法の名の中、〈総合職〉を選択すれば、男女は同じ給料、同じ待遇を保証されて働けることになっていた。「新しい時代」だと言われていた。生命保険会社社員、国際線の客室乗務員、国会議員公設秘書、大手総合商社社員……。大学を出て30年、50代を迎えた彼女たちの足跡は「会社ラブ」だけでは乗り切れなかったのだ。
ミルコさんは転職した角川書店で、ボスである見城徹氏に心酔した。寝る時間を惜しみ、仕事も遊びも作家との付き合いも全力で取り組んだ。93年、角川春樹社長の逮捕のあと、見城さんは何人かの社員とともに幻冬舎を設立。ミルコさんは付いていくことに決めた。
幻冬舎設立後、最初の文芸書出版の作家のなかに北方謙三さんもいた。秘書をしていた私は、当然、打ち合わせなども行ったが、直接の担当ではなかったので、ミルコさんのことはよく知らなかった。だがその後の活躍をみても、幻冬舎を背負って立つ看板編集者であったことは間違いない。
私はミルコさんよりいくつか年上になる。雇用機会均等法がない時代、大学卒業後、専門職である会社に入る。技術畑の人間として日本中の研究所をまわりつつ、社内では幼稚園のスモックみたいな制服を着させられ、他の女子社員と同じようにお茶出し当番を割り振られていた。セクハラ、パワハラあたりまえ。上手くいなすか、知らんふりして逃げるか。給料は同期より数万円下なのに、仕事は一緒かそれ以上。それでもやりがいがあった。楽しかった。
しかし結婚したら、専門の仕事をすべて干された。びっくりした。今でいう「プロジェクト」も一切合切外され、新聞の切り抜きと新技術の情報整理くらいしかやることがなくなった。
「ここにいても仕方ない」と友人たちの伝手を頼って新しい仕事を探していた矢先、幸運にも小説家の秘書になることができた。あまりにも劇的な転職だったので、当時の女性就職情報誌「とらばーゆ」が取材に来たほどだ。
私のボスとなった北方謙三氏は当時「ハードボイルド小説の旗手」と呼ばれ、年間12冊の単行本を出版する超売れっ子作家だった。大手出版社とは当然付き合いがあり、私は数年先までの出版スケジュールを組んでいた。担当編集者とも近しくなり、それは今でも財産になっている。
あの時代、とにかく何か忙しかった記憶がある。私は金銭的な恩恵は何も受けていないと思っていたが、考えればいろいろは会社のお金でご馳走になり、講演会などの出張にも連れて行ってもらっていた。優秀な編集者は同時に何人もの作家を受け持ち、一発当てれば、人気も収入も跳ね上がる。初版10万部が当たり前だったころ。今では信じられない。
ミルコさんは見城さんのもとで、会社とボスへの忠誠を誓い、必死で働いていたと思う。本書を読むと、同時代の女性編集者は胸が痛くなるだろう。働き続けるのに何の疑問も持たなかったミルコさんにきた転機は意外なことだった。
ミルコさんが会社を辞めたというニュースは、かなりの好奇心を煽った。噂話ではいろいろ聞いたが、のちに闘病記を執筆されたので「これだったのか」と思っていた。だが、この本で彼女の心がボキッと折れる瞬間を知った。夢だけ植え付けて、信じさせて、あとは放り出されてしまう、その時の恐怖。
ミルコさんはこの本を出したことで、次のステップへの大きな踏切台を蹴ったと思う。懐かしいと思うには、まだ血が滲んでいる歴史だけど、記録に残してくれて本当にありがとう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ミルコさんが幻冬舎で編集した最後の本。私は単行本で読んで泣かされたのだが、このたびハヤカワ文庫で復刊した。『バブル』の中で、この本に関しての見城さんとのやり取りの場面で、私は思わず泣いてしまった。いい本なんです。塩田春香のレビューを是非読んでください。