突如あらわれた新型コロナウィルス伝染病に対し、医師たちは最初、徒手空拳で挑まなければならなかった。徐々に解明される高齢者のリスクや三密回避、伝染経路や防御方法などを人々が守ることによって、第二波も収まりつつあるようだ。根本的な治療方法はわからなくても、顕著な死亡率の低下となって現れている。
医療関係者だけでなく、想像もできない事態のなかで、突然最前線に立たされ現場をおさめる当事者になる場合があることを、私たちは肝に銘じなければならない。
本書は2011年3月11日、東日本大震災によって福島第一原発が全電源を消失したことから始まる。核燃料の冷却ができなくなり、制御不能となり、菅直人首相(当時)によって「原子力緊急事態宣言」が発出された。
この宣言は以下の場合に発出される。
ひとつは原子力施設から政令に定める基準値以上の放射線が検出された場合。もうひとつは原子炉そのものが損傷またはそれが予測される事態が発生した場合である。
1999年に起きた東海村JCO臨界事故以降、被ばく患者が発生した場合、迅速に対応することを目的として構成されたのが「緊急被ばく体制」である。
全国59の病院が初期被ばく医療機関として指定を受けていた。もし初期被ばく医療機関で対応できないと判断された場合、より専門的な二次被ばく医療機関へと移送される。それでも手におえない場合は、三次被ばく機関として放射線医学研究所(放医研)と広島大学が指定されていた。
福島原発の原子力緊急事態宣言の前から、千葉にある放医研では傷病者の受け入れや職員の現地への派遣をした準備が始められた。放医研から現地に派遣されたチームは十分訓練された医師と放射線計測の専門家、看護職の3名だ。
だが対策本部であるオフサイトセンターには国や東電、警察や消防など指揮をとるべき人たちが参集していなかったのだ。医療班の班長であるべき厚労省の担当者はもとから派遣されておらず、医療関係者が誰もいない。
3月12日、1号機が水素爆発を起こす。原発から5キロほどのオフサイトセンターでもその衝撃を受けた。負傷者が発生したため、すぐに初期被ばく医療機関へ搬送しなくてはならない。だが初期被ばく医療機関に指定された病院はすべて半径10キロ以内にあったため、スタッフと入院患者はすでに避難していた。負傷者の移送は困難を極める。
10キロ以内にある、たくさんの入院患者を抱える総合病院にも避難指示が出た。だが重篤な患者を移送することは難しい。その上、汚染や被ばくを恐れて受け入れも拒否される。移送途中で命を落とした患者もいたのだ。
大混乱のなか、負傷者の受け入れ先になったのは福島県立医科大学付属病院だった。県内で唯一の二次被ばく医療機関の指定を受けていた。対応を任されたのは救急外来のリーダー長谷川有史。しかし彼には原子力災害から発生した負傷者を診療した経験も、十分な訓練も受けていない。だが「中央」は強引だった。
7年後、日本集団災害医学会で長谷川はこう発表した。
もしかしたら起きるかもしれない大きな出来事に対する想像力が欠けていたというのは、否定できません。自分の病院が二次被ばく医療機関だという強い意識も持っていませんでした
いつになったら専門家がやってきて、専門的なアドバイスと専門的な治療をしてくれるんだろう。いつまで素人にこの国は任せておくんだろう
突如として最前線で対応を迫られた医師の率直な気持ちだろう。彼だけでなくこの病院の医療関係者は、知識も確たる情報もないまま、極限状況で患者と向き合わなくてはならなくなった。彼らの懊悩も余すところなく語られる。
本書には医療関係者だけでなく、自衛隊、東京消防庁のハイパーレスキュー隊の体験も詳述されている。彼らも突然最前線に駆り出された人たちだ。私たちがテレビにかじりついてみていた現場の証言には胸が締め付けられる。
今回の新型コロナウィルス流行も、最前線の医療機関への過度な負担が生じた。先の見えない治療で消耗した医療関係者は多かったことだろう。
「誰が命を救うのか」は反対側に立つ大多数の立場からすれば「誰が命を救ってくれるのか」になる。緊迫の事態は誰の身の上に起こってもおかしくないことなのだ。
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1999年に核燃料加工施設「JCO東海事業所」で起こった臨界事故で犠牲となった作業員の世界に類を見ない治療記録。
震災直後から、作家、海堂尊が現場の医師を取材 し編纂した一冊。身動きの取れない中でも最善を尽くした医師たちの記録。
石巻で 唯一、水没を免れ自家発電機を有していたこの病院に人々が殺到した。赤十字の組織力と機動力によって医療活動を全うした病院の記録。