この著者の本を読むのは初めてではない。なので、怖さはある程度予測できた。それでも、幾度となく背筋が凍る思いがした。この本で語られている現実は、人生の選択において誰もが避けたいと考える結末である。社会からの孤立。家族と無縁で、友達はゼロ。そして、誰にも気づかれることなく、自室でもがき苦しみながら溶けていく孤独死。
本書は、前著『超孤独死社会』に引き続いて、現代日本の凄絶な孤独死現場を取材し続ける気鋭のノンフィクションライターによる最新レポートである。孤独死がメインなのは変わりないが、本書では血縁・友人知人関係といった人間どうしのつながりの希薄さに重心が置かれている。
たとえば最初の章にこんな場面がある。37歳の西良太(仮名)が、親の最後の後始末を代行する一般社団法人LMNの代表・遠藤に向かって堰を切ったように自分の半生を語っている。
自分には絶縁状態の親がおり、父親はすでに自殺している。その父親の死後処理を行政から迫られ、うんざりした。母親も高齢だが、10年以上会っていない。正直死んでくれていたほうが良い。しかし死んだら面倒事は避けられない――。
肉親に対してなんて奴だ、と思われるかもしれないが、彼には両親を激しく憎む理由がある。まず父親はギャンブル癖があり、多額の借金を抱えていた。また、女好きでもあり、良太が小学三年生のときに不倫相手とともに蒸発。母親もその後酒に溺れ、夜の街に繰り出し、家にほとんど帰らなくなった。
普通の家庭がほしかった。父親が死んだ時点で籍を抜いた。今は二児の父だ。老いた78歳の母親はもはや「お荷物」でしかない。
相談を受けた遠藤代表は、プランの説明に取りかかる。金銭管理や身元保証に関する手続きはやっていただきますが、日頃の生活の面倒はうちがやります。介護施設の選定や納骨の仲介も。今後は認知症が懸念されます。終末期医療で、延命措置はどうしますか。葬儀は火葬だけですか、ご遺骨はどのようにしますか……。当人不在でどんどん話が進んでいく。
けっきょく、良太は最低の30万円プランで遠藤にほぼ「丸投げ」した。遠藤にとっては驚く話ではない。事業を始めた当初は、独り身の高齢者からの依頼が多いかと考えていた。が、蓋を開けてみてなんと、申し込みの7割以上が介護の必要な家族を荷物に感じる人たちからのものだった。まさしく現代の「姥捨て」ビジネスを興してしまったのだ。
現役世代に降りかかる問題は、高齢家族の世話・介護だけではない。著者によると、孤独死が働き盛りの30代・40代で深刻化しているという。
孤独死というと、一人暮らしの高齢者に起こりやすいイメージだが、実際のところ、65歳以上は地域で見守りがなされている場合が多く、自宅で死亡しても見つかりやすい。孤独死に関する政府統計も65歳以上だけで、現役世代のデータはまだない。つまり、高齢者よりもさらに悲惨な状態で発見されるケースが多いのだ。本書に登場する特殊清掃業者の塩田は、うちにくる孤独死の特殊清掃依頼の8割以上が65歳以下だと述べる。
東北地方から上京し、ウェブ制作会社に勤務していた40代男性は、一度も無断欠勤のない真面目な人物だった。しかし、GW後から姿を見せず、心配した同僚がマンションを訪ねると、急性心筋梗塞ですでに事切れていた。部屋は大量のパソコンサーバー機とその配線がひしめき合い、隙間に空のカップラーメン容器とコンビニ弁当が転がり、室温は40度を超える、非常に不衛生な環境だった。
塩田は、急性心筋梗塞による孤独死は30代、40代の男性に圧倒的に多いという。仕事は実直そのものだが、私生活では自分の世界にこもりがちで、社会的に孤立しやすいのだ。団塊ジュニア、ゆとり世代にも当てはまる話である。
女性の孤立も無論存在する。ある年の9月末、42歳の独身女性がマンションの一室で孤独死した。夏場であったため腐敗の進行が早く、発見時すでに一部が白骨化していた。警察によれば、女性が飼っていた犬3匹がそばを走り回っており、悲惨なことに遺体の一部を食べられた痕跡もあったようだ。
彼女の仕事は派遣の事務職。数ヶ月ごとに職場が変わるため、深い人間関係を築くことができず、しかも家族とも疎遠だった。実際、お盆明けに彼女が出勤してこなくても、訪ねてくる人はいなかった。
孤独死に至る前提として、部屋がゴミ屋敷化する、まともな食事を摂らなくなるといったセルフネグレクト状態がある。男性はパワハラや失業のような、社会との軋轢で陥るが、女性は失恋や離婚、病気などをきっかけになりやすい。加えて、真面目な気質と打たれ弱さ、責任感の強さから誰にも頼れない、もしくは頼らない選択をし、ますます孤立し、健康を害していく。助けを求めるのは、自分を社会不適合者と認めたも同然だから、できない……。
共同体の喪失、非正規雇用の急増、所得減少による貧困化といった社会構造の欠陥が、前述の家族の「遺棄」や若年層の孤独死を生み出しているのは言うまでもない。
かといって、会社が社員と家族ぐるみの付き合いをしたり、近隣住民と地域コミュニティを形成したりといった古き良き日本に戻れるかと言ったら、無理な話だろう。自分の道は自力で切り開き、失敗すれば零落する。棄てるも棄てられるも、すでに現代の自由競争システムの一部と言えそうである。
著者は、結論として、やはり人間は一人で完結することはできない、だから自らが心を開いて、応えてくれる存在を見つけようと綴る。たしかに、外部との接続に乏しい孤立状態は他人に気づいてもらうのがほぼ不可能なので、それしか手立てはないように思える。たとえSNSで大勢のフォロワーや友達がいても、彼らが安否を心配して家を訪ねてくることはないのだから。
なにより、今は人間関係をさらに分断するコロナ禍の最中だ。自分の社会階層を客観視するのはプライド的につらい話かもしれないが、孤独に死にたくなければ、やるほかあるまい。
新書ながらぐったりする重苦しさだが、前著を含め、やっぱり全く他人事には感じられない。幅広く読まれてほしいと願わずにはいられない一冊である。