高橋瑞(たかはし みず)、嘉永5年(1852年)生まれ。その名を知っている人はどれくらいいるだろう。日本で三番目に医師国家資格を取得した女性である。『明治を生きた男装の女医』は、その人生を丹念に綴った伝記小説だ。
24歳にして家出、旅芸人の賄い、女中、短く不幸な結婚の後、産婆に弟子入りする。28歳の時、跡継ぎになれと誘われるが、女医になりたいと固辞する。しかし、女性にはその資格がないことを知り、まず内務省へ直接請願に行く。すごい行動力だ。ちなみに、取り上げた赤ん坊は2万人という。
済世学舎への入学を希望するが、女子学生を受け入れたことがないために難色を示される。粘り勝ちするも、「女医は不可」、「乞食」、「行かず後家」などと黒板に書かれるなど、下劣な嫌がらせをうけ続ける。
そんなことはものともせず、無事に修了し、順天堂医院で実習をすませ、34歳にして医師となる。荻野吟子、生沢久野に次ぐ、日本で3人目の「公許女医」であった。
急患第一、診察は懇切丁寧、子どもの患者を大切にし、持たざる者からは治療費を受け取らない。当然、名声は高まり「日本橋名物、男装の女医」と呼ばれるようになる。
さらにすごいのはここからだ。産婦人科を極めたいが、日本の大学では受け入れてもらえない。そこでドイツ留学を決意する。と書けば格好いいが、むちゃくちゃなことだった。何しろ、目的のベルリン大学も女子は受け入れていなかったのだから。
行ってみたけれど、勉強したはずのドイツ語はまったく通じない。もちろんベルリン大学へは入れてもらえるわけがない。こんなことなら首を吊るという瑞を見かね、研修を積み、ドイツ語がわかるようになれば聴講を認めるという妥協案が出される。
必死で勉強した瑞のドイツ語はみるみるうちに上達し、いよいよ聴講の初日、なんと紋付き羽織袴で登校した。席は教壇の脇で学生と向き合う形と、ほとんど嫌がらせだったが、瑞は「一番前で先生の話が聞けるなんて、ありがたいことだ」と喜んだという。なにからなにまでレベルが違いすぎる。
男装というと、ついタカラヅカを思い浮かべてしまうが、瑞の場合はほとんど「おっさん」である。その痛快ともいえる人生だけでなく、日本の女性医師がどのような経緯で誕生したかもしっかり知ることができる。いやぁ、むっちゃ勉強になりましたわ。
日本医事新報8月22日号『なかのとおるのええ加減でいきまっせ』から転載
同じ著者、田中ひかるの本。だいぶ昔、単行本の発刊時にレビューしました。
同じく田中ひかるの本。えらく対象が幅広い。この本を読めば、林死刑囚が真犯人かどうかは別として、再審請求は受け付けられるべきだと思う。
日本初の西洋医学の女性医師といえば、シーボルトの娘、お稲こと楠本イネである。